やめる/やめない/やめられない

新しい事を始めるのは勇気がいる。

全く知らないことならどんな危険が潜んでいるかわからず、少し知っているならどんな危険があるかが予想でき過ぎて怖くて。良く知らないとできない…なんていっていたらやらないと知ることはできないのでいつまでたってもできず。それでもその領域に乗り込みたい、面白い、絶対いける!と思えば、リスクを踏まえて乗り込む。

そのリスクを乗り越えるために、人脈を利用するのか、コネを利用するのか、地縁血縁を利用するのか、ブランド、金、人海戦術、権力等々、何かの“力”で押し切るという手法が使える可能性がある。ここしばらくの不況期であったとしても、それは多くは経済的問題に起因することであり、その他の力で押し切ろうとすれば、できないことはない。

 

そうして一度走り始めたもの/まわり始めた歯車とはいいながら、組織としての慣性力が大きなところではなかなか回りにくいものもある。世間の常識という慣性力が変わらずに、なかなか回転しないなんてのはしょっちゅうだ。だからそれが調子よく回り切らないうちに、取りやめようという話が出ることもある。

しかし、開始直後のあまりに早いうちに「やっぱりやーめた」となれば、それを「やろう」と決断/判断した者の責任が問われることにもなる。小さくない投資がされていればなおさら。だからやめない、やめられない。「やれっ」と言ったものの見識や責任が問われる、ダメ出しをすることになるからだ。

 

それでもやめなければならないと周りから迫られるものもある。が、小さなことであったとしても、一度それにかかわりだした者が生まれた瞬間から、関わっている者には既得権が生まれる。そうして辞められない時間が経過することで、歴史的意義も生まれ始める。成功しているものはもちろん、やめられないだろうし、やめる必要もないだろう(誰にとって成功しているか?にもよるけれど)。

だがまだ成功していないもの、成功する道筋が見えていないものは?今やめれば当然ながら、これまでの投資が回収できない可能性が高かったりする。もしかすると、あと一か月すれば、一気に成功への道が開けてくる可能性もなくはない…が保証もない。そうした努力は普通初期になされているはずのものがほとんどで、今さら金や人で押し切れるという場合はかなり少ないこともある。初期投入費用が少なすぎたとか、遅すぎる少なすぎるなんてのもよく聞く話だ。閾値を超えない投入は、そもそも投入の意義を示せない。

結局、どうやって、誰が責任を引き受けて辞めるか?という責任問題として取り上げられるだけで、引責すべき者を誰にするかという議論が進まなければ、辞められないということになる。そして往々にして、そういう議論は遅々として進まず、時間ばかりが過ぎ、無駄な時間と無駄な金が流れ出る。

 

でも、それでもやめなければならないものはたくさんある。まず「やめられないこと」を辞めなければ、そもそもやめることすらできなくなっている。“傷を止めて”から話をするならわかるけれど、“傷を止めるかどうか”の話から始めなければならないなんてのはもう…。

そのためには、事前に、終了条件を規定しておくのでもいい。時間を切って見直すのでもいい、何らかの時限装置をつけ、誰かにお仕着せるというもっとも厄介なやり方だけは避けなければならない。

 

やめられないことをやめる。

 

これからすることにやめるための安全弁を付けるというのはもちろんだが、今までやめられていないことを今すぐやめるのは、それこそやめなければならない方/やめさせなければならない方の双方にとって、大きな痛みを伴うだろう。でも痛みは、時間が癒してくれるものでもある。今やめなければ、やめない痛みはいつまでも消えず、痛み続ける。

 

今やめて、3年後5年後にチャラにできるか、今やめずに、3年後5年後もやはり今のままシクシクと痛み続けているのか。それこそが選択すべき決断。

逃げ切れる?それはあなたにとってであって、残る者にとっては先送りだろ。