束ねる、ひも解く、のそのために

ある一つの概念がある。何でもいい、そんなに難しい事である必要すらない。

たとえば「リンゴ」だとしよう。みなさん、想像できただろうか?

 

「リンゴ」と言えば、赤い、ピンとしたツルのついた、秋口にでてくるおいしい果物、といった映像を思い浮かべるかもしれない。

 

しかし、リンゴと一言で言っても、「ふじ」もあれば「ジョナゴールド」「紅玉」をはじめとして、さまざまな種類の、さまざまな色の、さまざまな味のリンゴが存在する。決して一つじゃない。が、リンゴという単語で、みんなのイメージはほぼ統一できるし、よほどの特別な用途でもない限り「リンゴ買ってきて」という“お使い”のお願いの仕方で普通は十分だ。

 

しかしこれが作り手側になった瞬間には、そうはいかないだろう。

いざ自分がリンゴ農家になろうとした瞬間、品種は何にするか、それは手に入るのか、病気に強い品種か、育てやすい品種か、収量が多いのか少ないのか、売り上げは立てやすいのか…。作る方からすれば、「紅玉」ではなく「ふじ」でなければだめかもしれないのだ。道楽ならまだしも、リンゴ栽培で食っていこう、仕事に選ぼうとするなら、価値あるものを作らなければならない。それは“リンゴ”では捉えきれていないより細かな、しかしその立場によって必要な情報がそこにはあるということ。

 

 

人は立場によって、その情報を、どの塊としてとらえるかが重要な時がある。その概念レベルは、束ねている情報を、時と場合によって、自由に、鮮やかに使い分けられている。

「人」というくくりとするなら、動物界での人間と他の動物との対比を考える場合もあれば、「人」と言っても、黒人、白人、黄色人種とうとう、人種という捉え方、宗教という捉え方、国という捉え方もできる。もちろん「人」をより分断して性別としての男と女に分けることもできれば、年齢/年代で分けることもできる。必要に応じて、その概念を、適切な大きさに分解したり、適切な括りでまとめたりと適切にハンドリングしてやることにより、正しく整理され、正しく理解する助けとなる。細かすぎる分類は情報/条件の漏れを生み出したり、より複雑化させるだけだし、大まかすぎる分類であっても条件漏れ/もしくは分類できなかったりすることを生む。

 

コモンセンスとして、黙っていても今どの括りで話を進めているのかが分かるときはまだよい。けれど文化的差異、地域差、言語の差、背景知識の差、等々により、その括りが意味するところが微妙に変わることもある。それをすばやく認識し、そのギャップを解消するためには、“自分自身”がどのように認識しているのかを理解した上で(ベースライン)、相手の認識を探り、その差分を埋める情報交換が必要になる。相手を知るだけでは足りない。まず自分自身を知っていなければ、差は導けない。どこに置け、というのではなく、自分というベースラインがなければ差分を認識することすらできない。人になびいているだけでは、ベースラインがぶれるんだよ。