課題発見

小学校に入って以後、高校あたりを卒業するまで、時間割された「科目」単位で、修得すべきこと、記憶すべきことなどを課題として課せられ、期末テストの形式で判断される。何を覚えるか、何を習得するかが決められており、それをあるレベル以上において習得しているかどうかでテストクリア。クリアすべき課題は、日本人であれば、コモンセンスとして認識されるレベルにまでなっていると言ってもいいくらい。

 

大学に入ると、一般教養といった高校までの科目と似た部分もあるけれど、それ以外の、高校までの科目として存在していなかった授業に関しては、教材も教授が指定し、その授業で教える内容も教授が決め、それらがクリアーできているかも教授が判断する。まぁたぶん教授会といった中においてある程度判断されているだろう内容なので、さほど難しすぎる/簡単すぎるという極端なものはないつもりなのかもしれないけれど、高校までの課題設定とは少し違う。

 

社会人になると、さらにそれらは“進化”し、誰も課題を与えてくれない。いや、課題ばかりだともとらえられるかもしれない。それは、その課題を解くという選択肢もあれば、その課題を回避するという選択肢も存在するからだ。

逃げられない課題ももちろんある。それが当人だけで解くには難しい場合もある。が、そういう場合にはたいてい、チームや部署がサポートしてくれることが前提となっていたりもする。そうして一つ一つ、少しずつクリアーしていくことにより、当人は成長する。逃げ回っていれば、成長の機会は失われる。

もちろん、すべてが成功する/成長するとは限らず、課題に挑んで失敗するリスクもある。大きな痛手をこうむることもある。が、“痛手からも成長できる”ということは、忘れがちで、実はこれがもっとも成長できる道であったりもする。要するに、成長する気があれば、すべてを糧にできるが、成長したいと思わない/考えていなければ、そういう選択肢も選択できる。

 

難しいのは、その解くべき課題を見つけられているのか?ということ。その課題は解くべき価値のある課題なのか?つまらない課題の場合だってもちろんありうる。有限な時間の中で、自分が対峙すべき課題かどうかを見極めるのはかなり難しい。

本当に挑むべき課題が面白い課題とは限らないし、面白い課題が挑むべき課題であるとも限らない。

 

一見つまらない課題の向こうに、すばらしい取り組むべき課題が控えている場合もある。反対に、解くべき課題に見えている向こうに、つまらない課題が羅列している場合もある。他人ごととして、それも運命、あてがわれるままにこなすというのもやり方の一つではある。けれど、自分から積極的に一つ一つを認識し、考え、結果的に間違ったとしても自分から選択していくというやり方もある。

 

優れたビジネスマンの何人かは、会社から与えられる課題ばかりではなく、優れた解くべき課題を自ら探し出し、そしてそれを鮮やかに解決していく。自ら課題を探し出すため、それに対しては一番にアプローチし、手を付けることができる。そして、万一自分でそれを解決できるだけの能力を持ち合わせていないとしても、それを解くべきだ、価値ある課題だと思えば、そうした能力を持つ仲間を探し出して、自らチームを編成して、果敢に挑戦していく。

 

課題を正しく見つけられる力、設定する力。これをさらに解析/分解するとすれば、何と何になるんだろうか?観察力?洞察力?比喩力?説明力?分析力?

意識?