枯渇する

石油資源は、私が子供のころに習った時点で「あと30年ほどで枯渇する」と言われていた。その後高校大学と進学し、就職した後でもやはり「あと30年で枯渇する」と聞いた。そしてそこからさらに時がたった今まだ、「確実になくなる日付」を聞いた覚えはない。

徐々に原油の価格が上がること、また石油を使わない形での生活形態を模索することで、消費スピードが緩んでいること?も相まっているのかもしれないけれど、なんにせよ、あと数年レベルのどこかでプツンと切れてしまうほどにはせっぱつまっていない雰囲気だ。

 

 

インターネットは、IPv4でのアドレスが枯渇し、通信問題が起きる?などと騒がれたのも何年前の事か?それを解決するために、その次の進んだ世界としてIPv6がもてはやされた記憶も、すでに風化しつつある。枯渇が叫ばれた当時では、多くの機器がそこまでインテリジェンス(高機能)を、価格的にも持ち得ていなかったところもあるのだろうけれど、今どきなら、たいていの機器では対応できる準備が整いつつあるんじゃないだろうか。CPUもメモリーも、OSの能力も十分に持ち得ている。

けれどいっこうに、それを使わなければしのげない状況にまで追い詰められている感がない。一部専門領域では困っているかもしれないのだけれど、一般売りのレベルにおいて、まだそこまで困っているという具体的な声は、少なくとも私の周りでは聞こえてこない。機器は増え、能力向上は期待されているにもかかわらず。

 

 

原発事故以前、原子力なしでは日本の電力は足りなくなると洗脳されてきた。すでに何十%もの発電を原子力に頼った上で、日本は成り立っている、だから原子力よろしく…、という論理だった。

だが2011年の3.11以降、原子力はすべて止められた。かわりに燃料を輸入して、火力発電でしのぐこととなった。もちろん、それで電力会社の多くは大赤字になっている。

しかし電力の都合はついている、少なくとも今のところは。今後、ずっとこのままいけば、電力会社は会社が傾く可能性もなくはないけれど、少なくとも“電力供給元”に対して選択肢のない世界では、競争による効率化の努力はまだまだ甘い。それをどこまで絞れるか、どこまで努力できるのかを、庶民は“黙って”見守っている。

 

 

まだまだ暑い日が続く2013年夏だけれど、そんな暑気払いにウナギを食べる、なんていう習慣が根付いたのは数百年前の事。そして、そのウナギの漁獲高が一気にしぼみ始めているのが数値的に明らかになって、すでに40年以上になる。去年今年になって、はじめてわかったことではない。が、マスコミが騒ぎだしたのはここ数年の事。今更驚いたところで仕方がない。状況はもう何十年も前から見えていたことだ。

 

たぶん、同じようなことは年金もそうだろう。何十年も前から見えていたことだけれど、きちんと手当てができていなかった。年金の問題の根幹となっている少子化もそうだろうけれど、施策を打っているつもりではあるけれど、効果はなかなか出ない。が、制度の変更は遅々として進められず、徐々にギャップが広がる。ますます施策が打ちにくくなる。

 

 

危ない危ないと言われながら、それらに対処する根本的な行動ができないものは、やがて否応なくその危険に巻き込まれていく。宝くじをはじめとする利のあることなら「次に当たるのは自分だ」と思い、交通事故などの危険や事故など利のないことなら「そんなのは自分には当たらない」と思っていても関係ない。

でも、あるモノはいつかは枯渇する。生み出す大元を傷つけていたりすれば効果はてきめんだ。金の卵を産むガチョウの話を持ち出すまでもない。

人の一生なんていう、たかが100年くらいの短いスパンで見たら、偶然“その”タイミングに出会うか出会わないかは運かもしれないが、有限のモノは枯渇する。その人の時間軸とたまたま一致していないというだけのこと。

そして歴史感から見て、そんな先々何千年分の人々のことを考えた行動や振る舞いをしてきたという史実は、まず記憶にない。(そして、放射能事故は、何千何万年もの間、日本の有史をはるかに凌駕する時間に匹敵する間、それら保守をし続けなければならないという業(ごう)を背負ったことになる。)

 

だから節約して使っていくのか、傍若無人に今/おのれさえよければよいのだとある種刹那的にふるまうのかは知らないけれど、使えばなくなるのは節理。

 

乱暴に扱えば、傷つき、枯渇する。