リスクが分からない

会社のプロジェクトはもちろん、自分の目標達成であっても、地域の活動であっても、どんな場所、どんな事例においてさえもリスクは存在する。それを管理することなしに目的に達せられれば、結果的にはそれでもいい。よほど幸運な人かもしれない。が、普通はそうはいかない。

だから多くの場合には、リスク解析だとか、もしもの時には、といったことを考えておくのが通例。

 

じゃぁどういう時がリスクなのか、もしもの時なのか?とあらためて考えようとすると、さて、なかなか出てこないこともある。なぜうまくリスクが出せないんだろうか?

 

ところでリスクを考える前に、最終目標はしっかりと定まっているだろうか?具体的なものができるのならわかりやすい。が、それ以外であったとしても、具体的な状態や環境など、より正確に、誰もが誤解なく確認できるほどにまで、イメージは固まっているだろうか?

 

「問題」や「課題」と呼ばれるのは、たいていこの「明確な目標」との“差”、ギャップだ。であるため、明確にそれが見えていなければ、そこから現状を差し引いたときに、差が生まれているのかいないのかが分からないようであれば、それが「問題」になるのかどうかさえ判定がつかない。

そして、そうした「問題」や「課題」が、生じうるかもしれないという可能性が【リスク】だ。

 

 

ゴールとして明確にイメージするモノがなければ、そこからの差分を取ることなどできない。あやふやなものからの差分はあやふやでしかなく、さて、許容できるものなのか/できないものなのか、すら判定できる以前の問題だ。

別にそれはゴールだけには限らない。いきなりゴールにたどり着くことやモノはまずない。必ずいくつかの中間生成物や、中間地点を通じて、最終地点にたどり着く。ゴールが明確でないのに、中間生成物だけ明確…というのは、それはそれで不思議なことだ。とするなら、中間生成物もまた、ぼんやりとしたモノになっている可能性もあり得る。であればそこに置ける差分もあやふやになり、リスクもあやふやになる。

 

「自動車を作ろう」としてバイクができあがることはおかしい。

しかし「人を運ぶ道具を作ろう」として、結果としてバイクが出来上がることはあり得る。

 

今つくっているものは何を目指しているのか、ゴールはどこにあるのか、ゴールは何を満たせばよいのか、そのための中間生成物はなんなのか、これらがより具体的にイメージできていれば、くっきりと頭の中に映像となって見えていればいるほど、そこに至らない状況は想像しやすくなる。具体的なそれが見えていないからこそ、あやふやなところをどこまで作りこむべきかわからない、それこそリスクをはらむ。

 

より具体的にそのシーンを、サービスを、できあがった商品を、細部に至って映像として話せるまでに具体的にイメージできていればこそ、そこに到達するまでの筋道は容易にひも解くことができる。

それがブレていたり、ぼんやりしていたり、コロコロと変わり続けることこそが、常にリスクを変動させ、管理を難しくさせる。そして一部は見落とされたり、最後まで発見できずに、それは品質にまで影響を与えることになる。