ウサギ

就学前の子供と遊ぶときは、叩いたら音が出るもの、作ってすぐに遊べるもの、やったらすぐに楽しめる、反応がある事が基本だろう。積む、積む、積む、ガシャーンと壊す。楽しい。見たいな。

ずーっと積む、積む、積む、積む、積む…というのが延々と何時間も連なって、その結果が果てしなく素晴らしい、みたいなことはあまり期待していないだろうし、大人から見た成果がどうであろうと、子供当人にはどうでもいいこと。たまに、積む、積む…という積む行為自体が当人にはとてもとても楽しくて、大人から見た偉業を達成してしまう子供もいるにはいるけれど。

要は楽しくないこと、すぐにどうなるかが分からないことは、子供としては理解しにくいんじゃないかな。

絵を描く、折り紙を折るなど、アクションがすぐに結果に結びつく。

 

野菜や花を育てるといったことは、今、目の前で行うアクションが、一週間、一か月後になって、やっと成果が表れることがほとんど。今のその行為が、その意味が、すべての子供たち世代が、すぐに理解できているかどうかは怪しい。

土いじりや水やりといった泥んこ遊びの延長線上の楽しみとしてそういった行為として楽しみ、で、一か月後にふと見てみると、花が咲いていたり、実がなっていたりする。その、行為と成果との関係性を理解するためには、時間と成長の概念が必要になってくる。

 

しかし、こうした理解を、どこかの段階で自分なりに身に着けて、行為と理解の関係を進化させておかないと、結果として後あと苦しむことになる。

 

ほとんどの勉強は、学んだり、習ったりしても、今やったことが今すぐ身に付く、結果がついてくるわけではない。小さな反復、繰り返して刷り込むこと、時間をかけて何度も体感することで、自分の身に付くものがほとんど。

たまーに、ちょっと聞いて、すぐに呑み込めて、反復してやってみてもすぐに体得できて、というのがいくつか重なってしまうと、「呑み込み早いねぇ」「頭いいねぇ」なんて持ち上げられて、反復訓練をおろそかにしてしまいがちになったりもする。小学校低学年でそれに慣れてしまい、高学年で落ち込むなんてパターン。

ま、「ウサギとカメ」のウサギに成っちまうってことだ。

 

もしも“ウサギ”でも、昼寝することなく、ずっと走り続ける環境を与えられたり、まわりから仕込まれたりする。ちょっと先走っても昼寝しない、サボらないウサギに成れたなら、ずっとずっとはるかかなたにまで走り続け、とてつもない遠方のゴールにまで到達するだろう。当人には全くそんな意識はなくても、どんな時でも絶えることなく、そもそも走り続けること自体がすごいこと。そんなすごい人も知人には確かにいる。でも真似できないんだよ、普通。

 

子供のころには神童と呼ばれ…二十過ぎればただの人…なんてのは、たぶん典型的な“ウサギ”だったけれど、どこかで寝ちゃっただろう人。ふと昼寝から目覚めて、おっヤバイヤバイとおいついて普通の人に。いつごろ“目覚めた”かによって、追いつき具合に差がある程度。すぐに昼寝から目覚めたか、結構ぐっすり寝て、昼夜逆転しちゃったか…。

子供のころには呑み込みが悪くても、それで簡単にへこたれず、きちんと励まされ、ずっとずっと着実にすすめる方法を学んだ人/身に着けた人は、すごくて、結果的に大成したり、決してあきらめない人に育つ。そんな人には頭が上がらない。

 

あぁ、長い昼寝だ。