みえるかみてるか

世の中、仕事に、遊びに、いろいろと技術や工夫が進んで、物事の数値化、グラフ化が進んできた。直接は測れないようなものでも、それを何か代表的な数値で置き換えることで、間接的に見えてくるものを理解できたり、思わぬ相関関係が発見できることもある。

小学生の時には数値とグラフ、なんだ図にするだけじゃないか…とか思っていたバカな私でも、単純な数値では計り知れないさまざまな関係をグラフ化することの利点は、一目見てわかる。

 

でも。

そうしてなんでも数値化すること、グラフ化することで、たしかに人々は「数字」を見るようにはなったけれど、その数字の意味することは見えているだろうか?数字が示す「実態」が何か、忘れずに考え続けているだろうか?数値化することによって、“数字でしか見なくなった…”ってことないだろうか?

 

数値化することで「数字で考えればよい」というのは、ごまかしようのない大きな利点ではある。であるがゆえに、「数字“としてしか”考えない」ことになってしまうと、その数字がくっ付いている本来の、モノや人、環境、品質、感動、情熱などなどは切り離されて忘れ去られていないだろうか?

“数字”を改善すればいい?のか、いやいや、その数字は直接改善しなくても、より深い感動が与えられることで、まわりまわってその数字が改善することになる、なんてことは考慮されているだろうか?

いや、まわりまわった関係性を“すべて”数式化したり、関数化出来たりしているのならそれでもいいのかもしれない。が、普通はそこまではなかなかできない。そんな時、実態を忘れた数字だけに振り回され、踊らされることこそ、本末転倒だろう。数値化はあくまで方法の一つであって、見たいものの実態は何か、改善したいものは何かがあった上での数字化、図式化。

 

見える化って、何を見るのか。

何を見たかったのか。