尾根伝い
子供のころ、遊んでいてあまりにも楽しく、いつまでもこの楽しい時間が無限に続けばいいのにと感じたことがある。しかし日は暮れるし親も呼びに来る。おなかもすいてくる。あぁ、もう少し遊んでいたいけれど、楽しいひと時は終わる。
もっと遊んでいたい!
だがもし、その時間を永遠に続けることができたなら、それは本当に楽しいのだろうか?おなかもすかないし喉も乾かず、ただただひたすら遊んでいられるとしたら?
たぶんそれでも、終わりはやってくる。楽しくなくなる時が必ず来るだろう。それは、同じことを続ける限り、いつかは“飽きる”からだ。
飽きる:同一レベルの刺激信号による興奮の喚起は、やがて必ず刺激信号に慣れ、麻痺し、やがて減衰する、とでも言えばいいだろうか。
何か変化し続ける、展開し続けるという状態が永遠に続き、その変化が自らのスキルと難易度にちょうどマッチしたときに至高の時を迎えるだろう。けれど、それが放っておいても永遠に続く、続けられるというのは無理な話だ。
永遠に続くための条件は、難易度とスキルがちょうどよいバランスになった状態を保ち続け、なおかつ刺激は変化し続けないといけない。刺激が変化し続けなければ、飽きる。難易度が急に優しくなりすぎたり、難しくなりすぎたりすると面白くなくなる。だが操作やスキルは繰り返すことで上達せざるを得ない。なので、相対的難易度は常に変化しつづける。
どんな経路をたどろうと、飽きてやめてしまうのは、そのモノに対する印象が良くない。あと味が悪いとでも言えばいいだろうか。だからゴールは何らかの形で決めて置く方がいい。
それは質なのか時間なのか金なのか、ともかく最初から決めておくことが重要だ。
「飽きるまでやってやめる」のが許されるのは、よほどの“放蕩息子”の立場でいられるものだけがやれること。それ以外の人は、金にせよ時間にせよ、無駄遣いしないためには、終了条件を決めておく方がいい。
まったく同じことをずっとずっとやり続けなければならないというのは、多くの人にとっては、あるレベルを超えると苦痛に変ずる。常に変化し続けるところに挑み続けなければ、やがて飽きてしまう。
たとえ一時は「あぁ、辛いな、しんどいな…」と思って、もうこのまま変化に挑むのはやめようとすると、今度は刺激がないことで飽きてしまい「あぁ、もっと面白いことはないのか、辛いな」。
結局、自分の挑むべき尾根を探して、歩き続ける。
一つ山を越えたら、いったん降りて、次の尾根へと挑む。