自分で定義する

あぁ、休みがたっぷりあったらあれもしたい、これもしたい…と思っている人はたくさんいらっしゃるだろう。しかしじゃぁお時間差し上げますよ、となった瞬間に、それがそのまま、じゃぁ明日はこれ、明後日はこれ…と実行できる人はそのうち何割いるのかな?

 

私はたぶん出不精で、確かに行きたいところもなくはないけれど、とはいえまぁ時間はあることだし、そう焦らずとも…と構えるタイプ。あちこちにあくせく旅に出るより、とりあえず少し落ち着いて動き出す。

旅先でも多分同じ。いわゆるガイドに載っている名所旧跡を着実に、かつ効率よくこなすよりも、そんなのに載っていないけれど、自分として気持ちのいい空間、気持ちのいい時間を過ごすことを優先する。

だから、見知らぬ街を意味もなくぶらりと歩くこともあれば、日がな一日森のざわめきに浸っているなんてのも嫌いじゃない。

 

仕事を終えて、家に帰ってとりあえずテレビ、という人も多いだろう。ドラマやバラエティ番組は確かに面白いものもある。

ただ個人的には、昨今のテレビコンテンツよりも面白いコンテンツがあちこちに出だしているし、やっぱり王道としての映画というのは、じっくりお金をかけて練られている分だけ面白いものがあるというのが私の認識。

 

出不精ではあるけれど、映画には興味があった私。

ここしばらく時間があったために、長短含めて確実に100本は映画を見た。ほとんどはDVDだけれど、それでも十分に楽しめた。最近のもの、古典と言われていたけれどチャンスがなかったものなど、手が出せるものは何でも見てみた。

 

文学作品では、古典で読んだ方がいいよ、という定番がいくつかあるだろう。本、という文化が、大量印刷ののちに庶民に広がり、そのすばらしい作品が、価値として広まったのは、グーテンベルク活版印刷を発明してくれていたから。おおよそ500年を超えるほどで培われた文化。

 

映画は、本に比べるとまだまだ。100年そこそこで出来上がった文化。そしてそれが、記録メディア、パッケージメディアとして成り立ったのは、ほんのここ数十年での成り立ちに過ぎない。

時間がそうした価値をどれだけ認めるのか、認識が広がるのかはわからない。でも、本当におおよそ2時間で、絶対に普通では体験しえないような感動を与えたり、驚きや悲しみを体験させてくれたりもするというのは、本と比較してもそん色ないはずだと信じたい。

 

もちろん、本がそうであるように、映画も駄作はたくさんある。が、本が過去の古典が何度も読み返されるのに比して、映画の古典を見られる機会、知る機会が減っているのは、つくづく残念だなぁと思うのだ。

 

 

働いている者が、たまの休日に、家でゴロゴロとビデオや映画を見ているのを、「つまらない時間の過ごし方だ」と糾弾されることがある。たしかに、本当につまらない過ごし方をしている人もいるのかもしれない。でも、休日まで「他人に評価」されてどうする?それは自分の時間。何に使おうと自由。もちろん、家族をお持ちの方は、その自由の裁量は少ないかもしれないけれど、それでも自分を主体とした時間として、自らが判断すればよい事。それが有意義なのかそうでないのか、そこまで心配する必要はないじゃないか。

 

いい映画、もっと見たい。