たとえば会社を辞めた時

退職したとたんに、これまでへこへこしていた人との縁が切れて、いきなり寂しい生活になった、といった話も聞く。学校を卒業したとたんに、それまでの友人の縁が切れたという人もいる。

 

確かに、これまでの社会においては、どこか組織との縁が切れたり、引っ越しで場所が遠く離れたりすることで、疎遠になることは少なくなかった。連絡の取り方としては、手紙か電話。あったとしても携帯電話。でも、リアルにつながれる電話というのは、それはそれで、それなりの日常的つながりがあるか、もしくは(仕事のような)必須の連絡内容がある場合でのコミュニケーション手法。引っ越して日常が切れ、特に今必要な連絡がない場合には、電話というのは使いにくかったりもする。

 

そうした最後の別れ際に、

「いつまでも友達だよ」

とか

「あとで必ず連絡するから」

とか、

「絶対にまた会おうね」

といった声をかけてくれることもある。社交辞令として、本音として、さまざまに掛ける言葉。

 

そしてそうした言葉が本当なのかどうなのかは、3か月後~1年以内にその結果が表れる。

反対に、わざわざ声をかけることがなかったとしても、そうしたメッセージをくれる人もいる。

 

本当に人が見える瞬間。

人の中での自分の位置づけが分かる瞬間。

 

ひっくり返すようだが、でも、たくさんの人がいればいい、数が多いことがいい、とは思わない。頻繁に連絡を入れればいいだけだとも思わない。

つながりの価値観は、見えているつながり、回数としてのつながりとしてカウントするだけでは、その価値は見えるようにできない。

何でもかんでも、カウントして、見えるようにできるモノだけを見えるようにすればいいと思っていると、間違いそうだ。

今は見えていないし、間接的にもカウントできないけれど、そこにある価値をどうすれば見えるようにできるかを、真剣に、ずっと、ぶれずに追求し続けないと、見えるようになったことに振り回されるんだろう。