誤り訂正

一を聞いて十を知る。ツーと言えばカー、以心伝心、ちょっと説明すると、あぁあれ?と話が通じる。感じている事、言いたい事がスッ、スと相手に通じるのは、話が早いのみならず、とても気持ちがよく、コミュニケーションがとてもスムーズにいくような感じがする。

であるがゆえに、相手が十分に説明していないにもかかわらず、あぁ、こうじゃね?ああじゃね?と必死で先回りして詮索し、それ相応に理解しようともする。

 

 

できる人、話が早い人と仕事をするのは、確かに気持ちがいいし、効率的だし、テキパキと仕事が進むのは心地よく、はかどる。でも、早く理解することばかりが優先しすぎて、自分の理解の速度を超えたり、若干の誤解や、伝達ミスを容認したりすることはないだろうか?

 

昔なら、そんな誤解や伝達ミスは、容易に修正ができた範囲だったのかもしれない。内容もそれほど複雑ではなく、さほど込み入っていたりもしない。それは、一般的に言われる「常識」という誤り訂正機構が働いていた時代、働きやすかった時代。

 

ところが現在は、そもそも「常識」という誤り訂正が効きづらい世の中。コモンセンスが、世代、性別、地域、職種、国、宗教等々で、全く異なることも少なくない。

放送が、津々浦々に広がったことにより、情報がより共通化…したのに若干遅れて、通信も津々浦々に、それも個々人に広がり、興味の対象となり得るモノが爆発的に増えた。

 

会社という、基本的に共通の目的に向かって動いているはずの集団においてさえ。同じグループ会社であっても会社によってルールが違ったり、同じ社内においても事業部によってルールが違っていたりする。言葉が違い、ルールが違い、微妙な差異が微妙な誤解を招き、微妙な混乱を生む。

 

これをポジティブにとらえれば、志向や趣味、興味がほぼ合致する者たちの間においては、強力に誤り訂正が働き、コミュニケーションスピードが格段に上がり、深い内容でのやり取りが、超高速に行われる。短い符号、その世界の常識での話題は、部外者が聞いていたとしても、暗号としか思えないレベルのやり取りになる場合も可能になる。同世代の女子高生、女子中学生どうしの会話が、外国語にしか聞こえないといったのもこの類だろう。

 

とはいえ、すでに一般的には、誤り訂正符号が効かない世界。いや、そもそも意識して、誤り訂正が強力にかかるようなコミュニケーションが求められている昨今であるはずではないんだろうか。

そりゃ「コミュニケーション」のやり方、難易度が上がるというのは、当然だろう。話していることが通じない…といって嘆くのは、そもそものベースラインに対する認識からしてずれているかもしれない。

通じない、だからこそ…と考えた方が、安全性は高い。結果として手戻りも減るはずではあるのだが。みんな猛スピードで飛ばしたがるんだよ。