原動力

物事を指標化したり、グラフ化したりして、分かりやすく、理解しやすくすることで、人々が進むべき方向性がはっきりして、勉強に、仕事に、方向性がはっきりと出せる時がある。特に一人での作業やアクティビティよりも、グループワーク、チームワークが必要な場合に効果的だろう。場合によっては、それによって一気に行動のベクトルが一致して、すぐに成果が表れることも、珍しい事ではなかったりする。

ただ、たぶんそうする前に、どうしてその指標を図式化するのか、数値化するのか、本当にその値を採用していいのか?という議論が交わされていたはずだ。

 

 

ほとんどのところでやりたいのは「図式化」や「数値化」そのものではないのは当然の事。たとえば理解を促進したい→だからそのために情報を効率よく共有したい→それには指標化して…といった“そもそも…”があった上で、そのためには、ああしよう、いや、こっちを採用した方がいいといった議論の行き着いた先として、たまたまその図式化や数式化であったケースとなることが多かったはず。

 

多分、運用当初はそうした“そもそも”が皆の念頭にあった上で、図式化したり、数値化したりされていたところが多いだろう。そして、そこで出てくる指標を、より良い方向へと変化させる施策を打っていき、それなりの成果が上がる。

 

やがて、そうして以前から採用されている「数値を良い方へと向かわせること」で成果が上がると短絡的に理解され始めてくると、行動が微妙に変わり始める。「そもそも」の部分が抜け落ち、「いかに指標としての数値をよいものにするか」ということにのみ興味が移り、その“数値をよくする”ための効率化が始まる。

 

「そもそも」部分を手を抜くことで数値が上がるようなやり方が見つかりだすと、“数値”は良くなっても、本質が毀損されるため、良い成果が出なくなり始める。いわゆる本末転倒の状況だ。

 

こんなバカな失敗をするところはそうそうはないはずなのだけれど、数字だけを信じ始めること、数字が内包する意味を忘れて“数値をよくすること”が作業となってしまうことで、何かとんでもない間違いを犯してしまうことはありがちな話だ。

 

これまでは、数値化しやすいものから数値化されてきたことで、そうしたおかしな間違いは、それでもまだ少なかった。けれど徐々に世の中が複雑になると同時に、簡単に数値化できる部分以外のところもなんとか数値化して“簡単に理解できる術”が求められ始めるにつけ、徐々にそうした誤解、間違いが潜みやすくなり始める。数字の本質を見誤りやすい時代に入りつつある。それは単純に「見える化すれば…」とか「指標を考えろ…」といった言葉が先行し、それ自体が目的になり始めているあたりから、微妙にかもしだされているような気がしてならない。

 

数値化、見える化の指標だけではうまくいかなくなり始めたら、誰でもわかるはず。その時こそ、原点に立ち返り、なぜそのデータを取る必要があるのか、情報を図式化するのかを理解しなおしたほうがいい。

世間は指標に動かされているのだから。うまい指標をいかに選んだ際の効果は、それこそ計り知れない。