選択の結果

哲学とか、倫理社会的なものを学んだ機会がある人は、どこかで聞いたことがあるだろう。「あれか、これか」。

 

別に難しいことじゃない。人生、どのような局面であろうと、気づいていようといまいと、そこで何かを選んでいる。

「あぁ、喉が渇いた」

と思った時に、水道水をコップに入れて飲むもよし、冷蔵庫を開けて飲み物を探すもよし。ましてや物質のあふれたこの世界、すくなくとも今これを目にしているような人にとっては、喉の渇きをいやす手段など、何種類もあるはずだ。にもかかわらず、すっと体が動いて何か水分を口にしたような気になっているけれど、それは当人が選択したものを口にしたまでの事。

 

 

人生にはもっと大きな選択もいくつかある。この人と結婚していいのかどうか?とか、この仕事を続けていってもよいのかどうか?子供がやっと学校になじみ始めたところなのに、海外赴任を受けるべきか否か…などといった、それこそ今後を大きく左右するであろう厄介な選択はいくつも出てくる。

 

何の気なしに選択した、今日は外で食べて帰ろうかという時に、中華なのかイタリアンなのかの選択の違いで、大きな事故に巻き込まれたのか、もしくは難を逃れたのか、なんてのも、あとから考えてみれば、ちょっとした選択の違いでしかないこともある。

 

まぁ災害は置いておくとしても、多くの人がその事象に関して、より良い方を選択したいと思っている。どちらがいいかとしばし考える。けれど多くの場合、あまり考慮する時間は与えられていないことがほとんど。十分な情報が手元にあることは少ない。逆に、十分に情報があったからと言って、迷いなく選択できることも少ないかもしれない。

 

それでも決断の時が来れば、選択せざるを得ない。

 

たいてい、どちらかを選択したとしても、そのあとには何らかの試練が待ち構えている。それがその直後にあるのか、それから1日後、1週間後、1か月後、1年後、その選択に起因することすら忘れるほど時間がたってからということだってあり得る。

 

そうした試練を、ただ黙って受け入れる、というケースは多分まずない。良いことは無条件で受け入れたとしても、都合の悪い事、被害をこうむることなどは、何とか是正し、より良い方向へ動くようにと努力するもの。

 

であるなら、「選択」とは、単に近視眼的に見て分かる範囲の未来の事しか予見していないに過ぎない。わからないその先にあることは、あちらを選んだのか、こちらを選んだのかにかかわらず、たぶんどちらでも似たようなことは起きていた可能性がある。ならばそれは「選択」自身に大きな意味があるというよりも、その後の「行動自体」が結果を導いているところが多分にあるということ。

間違いがちなのは「選択」した瞬間に物事が決まってしまうように勘違いすることがあるけれど、実は選択とは、単に方向が決まっただけであって、その先のことは別途工面したり、クリアーしていかなければならないということ。

「選択」したあとの「行動」こそが重要であり、それは、たとえ別の道を選択していたとしても、もしかするとあまり変わらないことであるかもしれない。ただし、向いているベクトルは少々変わっていたかもしれないのだけれど。

 

だから「選択」が何かを決めるというよりも、「選択の後の行動」こそが、その後を決める。予想できる範囲では、選択しようとしている方がよく見えているに過ぎない。

 

より成功体験を積んでいる人からよく効く言葉は、迷ったらつらい方を選べと言うこと。まさに、「選択」することにより単に見えている範囲での利を得ようというよりも、さらにその先で出くわすであろう事に対する「覚悟」を決めよということだろう。変に楽なやり方よりも、少々腹を据えて覚悟して取り掛かることで、何事をもこなしていく。

 

とするならば、「正しい選択」とは、「正しい覚悟」なのかもしれない。

選択したとたんに、その後の物事すべてがうまくいくなんてお気楽なことは、まずないのだから。