相対位置、絶対位置

人は、自分の位置、絶対位置を自分で認識できないことが多い。

すごい技術を持っていても、それが、世界の中でどこに位置するのか、ものすごい先頭を走っているのか、いや、大したことないのかは、なかなか認識できない。

そもそも、それがすごい技術かどうかという意識すらなく、趣味が高じてとか毎日やってきたということが、結果として一人高みに上っていたりすることもある。

反対に、自分ではすごく勉強して、ほらこんなにがんばった!やった!と思ったら、実はそれはまだまだ道半ば…ということもある。

 

 

希望を抱くというのは、ある意味、相対位置を意味しているかもしれない。今の位置よりも少しでも高いところを目指すことがほとんど。

しかし「そこに至ることがとても難しい」とわかった/感じられた瞬間、そうして想像した今より高い位置から転げ落ちて、今の低い位置のままであることを強く認識させられる。

この「転げ落ちる」感覚を嫌う人が多い。

いや、実際はそこに到達していないのだから、そこからは転げ落ちていない。にもかかわらず、目指した瞬間にその位置にいた気分になるようで、そこに届かないとわかった瞬間に、目指した位置から元の位置に戻ってしまうという感覚になるようだ。ほんとうは目指した分、着実にいくらかはそこに近づいている、少し以前よりも高みにいるにもかかわらず。

 

 

山で考えてみよう。

高みをめざし、8合目から9合目を目指すものの、悪天候で下山せざるを得なかったり。非常に険しく、命の危険を察知して下山する、なんてことならそれなりに納得できるかもしれない。

 

でも実は多くの人は、4合目から5合目にかけて挑戦しているところで、その1合目分が昇れないとして、あきらめていることはないだろうか?

8合目から9合目なら本当に命に係わるかもしれない。

でも、4合目から5合目なら、怪我したところで最悪、骨折、よければ打ち身で済む程度かもしれない。でもポテンシャルは1合目分という数字。差分としては同じ。だから内容も同じ…なわけないのにさ。

 

よほどの事でもない限り、僕ら、いや、私はそんな高みにはいない。だからこけること、失敗することよりも、挑戦しないことの方が「得られない」リスクが大きいはずだ。

まだまだやらなきゃいけないことは、たぶんたくさんある。人より出来が悪い分、進み続けるしかない。