誰かの物語

人が作った物語は、自分のモノにはできない。それは、文章であろうと、発表資料であろうと、自分のモノではない。

 

それでも誰かが書いた物語を、自分のモノにしなければならない時がある。

それを、声だけを使ってやるのか、身体を使ってやるのか、声も体も使ってやるのかで、求められる技術が変わってくる。

時にそこには、自分なりのオリジナリティを入れていい場合いもあれば、自分のアドリブは一切許されないこともある。

それでもそれらを「自分のモノ」にするためには、規定されている中においてのアドリブ、区切られた枠の中でのオリジナリティを出す必要がある。

 

時に、その区切りは、とても広い場合がある。誰も入ってこないように、特許などで周りを固めることができる場合もある。が、だからと言って、特許で固めた“土地”が肥沃だと思っていたにもかかわらず、全く別の土地を別の者が囲い、そこが、全く違った別の肥沃な土地である可能性もある。そちらが新たに富み、こちらが衰退することもある。

 

新たな土地を探すこと、と同時に、枠の中でのオリジナリティを追求し続ける。

どちらも簡単なことではない。よい土地だとすぐにわかるところには、すでに所有者がいるものだし、所有者がいないところは、そもそもうまみがないように見えるところだ。

すでに囲まれた枠のなかにおいても、そもそもスキマはほとんどないのが普通で、その枠自身がたいてい出涸らし状態になっている。

 

それでも、その誰かの物語を、自分の物語にすることにより、例え微々たるものであっても、自分のオリジナリティが生まれる。自分の何かが生じる。

何もしなければ、あがくことさえしなければ、何も生まれない。たとえ出涸らしでも、耕し続けなければならない時もある。たとえ見渡す限り枯れた土地でも、新たな土地を探しに出なければならない時もある。どちらにおいても、行動なくして打開策は見えてこないだろう。