それでも昔は
昔の日本、1960年代ごろは、経済が発展していたこともあり、日本において、専業主婦なんていう地位が確立していった。夫は働きに出、主婦は家を守る。それで経済が成り立っていた。
その後いくつかの経済危機を乗り越え、結果的に今では、「専業主婦」というポジションは、ある一部の高収入の世帯にのみ実現できるやり方。すでに妻が働きに出ること自体が当然の想定に変化しており、それに応じて、働き方、世帯運営の仕方に工夫が必要になってきている。
専業主婦がいたなら、後は任せた!と家を出ることが可能であっても、妻、夫、ともに働きに出るのであるならば、それなりにさまざまな対処にけりをつけていかなければならない。生活における時間管理が、極限までに求められ始めている。
ここにさらに子供が生まれたりすると、自分たちの時間コントロールとは関係なしに、子供が時間を支配し始める。
こうして仕事の時間、生活運営の時間、子供の時間…とさまざまな時間が規定され続けるなら、それこそ自宅における時間は、心を休めたり、リラックスしたりする時間に。となると、何かに集中する、何かをじっくり考えるといった時間をゆっくりとることは難しくなる。
以前なら、それでもドラマが見たいとテレビも見ていたし、録画機器も優秀になって、別の時間にタイムシフトをして、番組を見ることも行われてきた。
でももし、そもそもそうしたテレビを「楽しむ」時間が無くなってきているなら、単に「リラックスしたい」だけの時間になり始めているとしたら?
そもそもテレビ番組なんてものは、視聴率がさがって当然なのかもしれない。仕事での効率化をはじめとして、あちこちで時間を奪われてきているのだから、ちょっと見てみるとか、毎週楽しみにというのは、だんだんと難しくなるんだろう。
だからそれをモバイルに持ち出す装置も出始めている。通勤電車の中で見られるような工夫もあるかもしれない。
でも、そうした「娯楽」に使えるだけの心の余裕とか、金銭的余裕すら使って、仕事に、商品開発、サービス提供に時間もお金も奪われ続けるのなら、そもそも、そうした労働力世代向けの文化や情報というのは薄れるだろうし、楽しみ方などの厚みは亡くなっていくだろう。
働く世代を、究極の仕事効率化マシーンとして使い切ることで経済を回そう、というこのやりかた。別に日本だけじゃないと思うけれど、生き方とは何か、生きるってどういうことなのか、って、考えてしまうんだよね。
未来に何をもとめるんだろう。