“ある”だけでは意味がない

たとえば自宅にたくさんのマンガがあったとしよう。自分の気に入ったもの、以前から気になっていた作家のもの、聞いたことがない作品など、種々雑多なものがずらりと並んでいる。マンガ喫茶のマンガが、まるまる家の中に表れたと考えるとわかりやすいかもしれない。

さて、どれを読むだろう?

 

ぱらぱらと絵柄を見て?知っている作家のまだ読んでいなかったものを手に取ってみて?表紙の絵柄を眺めてみて…。きっと何かの“フック”を探している。

 

マンガに限らない。音楽も映像も、料理もスポーツも、なんでもフックを探している。だから「そこに置いてある」だけでは選択されない。そこに存在するだけでは選んでもらえない。だから必死で広告を打ち、テレビで、ラジオで、雑誌や新聞で、電車の吊り広告で宣伝する。

 

でも、テレビの視聴率が下がり、ラジオの聴取者が減り、雑誌や新聞の売り上げが減っている。かわりにWebの閲覧者は増え、LINEをはじめとするチャットや、SNSなどを利用し始めている。なのでそうしたネット上での広告で、機会が減ったフックを取り返そうとしている。

 

 

今でこそ、電車の中で、喫茶店で、大人も子供も、タブレット端末やスマートホンを、ずーっと指で触っている。数人で喫茶店で座っていても、みんながみんな液晶画面を見ているなんて光景すら、それほど不思議でなくなってきている。

 

でも感じるのは、そうしたツールを使いこなす人と、全く拒絶する人が、どんどん二極化しているのではないかという印象。スマートホンが広がっているとはいえ、積極的に使いこなせている人はやっぱり少なく。教えていただいた部分のみ使えているに過ぎないという人が多いとも聞く。

 

…ということは、実はそういう新しいものが受け入れられない人たちに新しいもの、新しいサービスを使ってほしいとするなら、それは今視聴率が下がりつつあるテレビだったり、売り上げが下がりつつある新聞雑誌あたりのいわゆる旧メディアに、積極的に広告を打つという必要があるはずだろう。新しいネット広告などに広く出しても意味がなく、そういう人たちは黙っていても新しいものに入ってきてくれる可能性が高く。古いものに固執している人、抜けられない人をいかに引き込むのか、いかに素晴らしい世界が広がっていることを知らせなければ、パイはなかなか広がらない。

自分たちを知らしめるために、自分たちが壊しつつある古いメディアを利用しなければ、そうした人たちを乗り換えさせることができない、引き込むことができない。