作る道具、見る道具

かなり以前からパソコンを使っていた両親。メールもWeb閲覧も、普通にパソコンでこなしていたし、写真を取り込んだり、アルバムを注文したりするなんてこともしていた。そんな両親にiPadをプレゼントした。

 

結果。彼らはそれ以後、もうほとんどパソコンを触っていないようだ。

これはうちの両親のみならず、叔父の家においても同じような状態になりつつある。

 

仕事ではないので、さほど長い文章を打つこともない。メールでも、そんな長い文章は必要ないあいてがほとんど。なのでタブレットのソフトキーボードで十分。Webを見るのもタブレットで十分。彼らにとっては、何かを入力したり、クリエイトするというつもりはたぶんない。

 

要するに、「見る道具、ほんの一部作る道具」の人にとっては、タブレットというのは、まさに待ってましたと言わんばかりの道具。キーボードみたいなものは必要ない。マウスも必要ない。また、起動時間に時間がかかるような面倒なこともないのがいいし、終わればサクッと電源を切れるのもいい。

 

「パソコンが必要な人」という人の多くは、それを仕事で使う人。それも、何かを作り出すためのツールとして使う人だろう。通信手段、情報収集(たいした発信ではない)手段としては、タブレットで十分な時代。

 

緻密な文章、レポートや表計算が必要な事務屋さんは、パソコンを使う。

プログラミングが必要な人も、パソコンを使うだろう。

でも、そうではない人々、たぶん、平日日中、自宅で過ごすような人々、ほとんどのユーザーにとっては、キーボードなどいらなかったということ。そうしたほとんどの人々は、文章をはじめ、何かを作っていくつもりがなかった人ということじゃないだろうか。

 

…とするなら、これほど女性登用、夫婦共働きという状況が普通になりつつある今、これからはタブレット利用が減って、みんなキーボードがほしくなる?それは仕事での利用であり、家に帰ったらそんなことはしない?

ま、それよりも、今まだパソコンで戸惑っている人たちに、タブレットが広まることで需要が喚起される方が多そうだけれど。

 

で、そのうちタブレットであったとしても、作る道具として十分なパフォーマンスが出るようになるのかもしれない。

 

作る道具を作る道具として使える“人”を、どうやって育てようか。