いつわりの姿

人との付き合いは難しい。

いつも私にはニコニコしている人が、他の人にはとても嫌われていたりすることもある。自分にはいつも嫌なことをしてくるのに、他の人からはとても慕われていたりすることもある。

 

私は嫌いだ。私は大好きだ。そんな自分の主観として好きな人、嫌いな人。

 

昔なら、嫌いな人とは当然付き合ったりしないし、話の接点もない。だから当然その人について知る必要もないし、知りたいとも思わない。当然、知れるチャンスもほとんどない。

 

でも、いまなら嫌いな奴ですら「調べる」事ができる。好きな人も当然「探し当てる」事ができる。ネットは広大だ。多くの場合は、当人が書いている記事、投稿している写真だったりするけれど、時には批判的に、時には好意的に、その人について書いている他人さえもいる。

そんな書き込みだから、自分についての「恥部」を晒すことは少ない。名前で探せるのだから実名投稿の場所。ニックネームだけれど事実上実名投稿なんていうところもある。そんなところを見ていると、いい事しか書かない、いい事しか書けない。もしくは、当たり障りのない事しか書かない、誰も傷つけないことしか書けない。

だから食べ物の写真が増える。子供の写真が増えたりする。風景写真が増える。趣味の写真が増える。

 

 

「友達」とは、喧嘩もできて、ちゃんとした議論ができて、でも仲がいい間柄、信頼できる間柄であると思っている。大人になってからは作りにくいと言われるのも、それが所以であると思っている。

でも、ネットを通じて喧嘩をしてしまって、ネットだけで仲直り/修復できななんてのは聞いたことがない。本当のやり取り、かさぶたが生じるような議論ができるけれど、でも修復できた例は、記憶にある限り見たことがない。

 

それが“今の大人”というなら、それはそれでいいかもしれない。もしかしたら、今後は、生まれてから死ぬまで、実は一生ネットを介した間柄で死んでいくなんていう人生の友達も現れるのかもしれない。

 

でも私は思う。それはいつわりりの間柄なんじゃないのか。本当に友達、親友になれるというのは、ネットだけでは(まだ今の段階では)成立しないんじゃないのか。

 

それでも道具として使っていく。道具としてなくては困る世界になっている。

それが、どういう姿であるのかを理解しつつ。

そうでない世界の姿も理解しつつ。