厳しい指摘は
さまざまな状況で、厳しい仕事をやり遂げなければならない昨今。うまくいかないこともあれば、苦難を乗り越えてうまくやり遂げられることもある。
すべての対処が正しかったとは言い切れないとは思うけれど、正しい対処がなければ乗り越えられないことを考えると、それなりに褒められていいことが多いはずだ。
私の単純な思い込みかもしれないけれど、日本人は、あまり褒めない。
できて当たり前。できなかったら普通に責める。厳しい指摘が飛ぶ。
だが時に、できなかったことを慰めることもある。たしかに、状況によって、それは仕方がない事である場合もあるのだろうけれど、しかしできなかったという事実は変わらない。
そして当人も、できなかったことよりも、慰められることで、あぁそうだ、私だけではどうしようもなかったのだと妙な納得をする。
それにくらべて、欧米の、特に私が知っているようなアメリカ人は、とてもよく褒める。日本人が照れるほど、細かい状況に至るまで褒める。ただし、うまくいかなければ、そこは非常に厳しく責める。メリハリがはっきりしている。
それは、成果に対しての言葉であり、決して当人の人間性をどうこうしたいところからきているものではない。だから、そこから外れると、その褒めも責めも、何も関係ない間柄に一気にリセットされる。
プラスとマイナスの両方への振れが大きいこと。しかしそれは「そのこと」に関しての事であり、決してその人それ自身を責めるものではない。
それに対して、プラスへはなかなか振らず、同時にマイナスへも大きく振ることはない。だがそれがどこまで影響するのか、人によってはよくわからないという場合も。
厳しい指摘をすることは、それは同時に良かったことをはっきり浮かび上がらせる。そして、本来進んでほしい方向を、はっきりと指し示すことになる。
しかし、それに慣れていないと、なかなかうまく順応できずにいる人もいる。落ち込んだりもする。
でも人は、仲間は、よほどの悪人でない限り、性善説にたってもよいのではないかと思う。チームのメンバーならなおさらだろう。
こんなコピーもあったよね。
ニッポンをほめよう
正しい道を選択していくために。
みんなで、進んでいくために。