いい失敗、悪い失敗
失敗ができるという環境は、前提として、リカバリーできる環境がある必要がある。一度しか挑戦できず、それが成功すればいいものの、万一失敗した際には二度と立ち直れないというなら、誰もそれには挑まないだろう。それこそ命を懸けた勝負になるしかなければ、誰もそんなところには近づかない。
リカバリーできる環境…というのにもいくつかある。莫大な資産を抱えて、少しくらいの損失が出たとしても問題がない場合。ちょっとしたギャンブルにお金をかけるのと似ているかもしれない。ちょっとくらい擦ったところで、もしかすると大きなリターンが狙えるのかもしれないというワクワク感。
もう一つは、ここで万一失敗したとしても、時間でそれらを取り返せる場合。いわゆる、「若さ」と呼ばれる資本があること。たとえ今失敗したとしても、やり直せる時間があるというのは、若さだけが持つ特権だ。
誰も「失敗しよう」と思って、失敗しているのではないのは自明の事。成功を目指すのだけれど、やっぱりダメだったというのが事実だろう。
しかしそれでも「失敗」にも違いがある。いい失敗と悪い失敗とがある。
言われたことを言われたままにおこなって、その結果失敗したら?
いやいや、言われたとおりにしただけですから…ということで、その失敗の原因や、内容にはあまり興味を持つことはないだろう。そもそもやったのは自分だけれど、そもそも勝算が小さいと思っていた通りになった。むしろ自分の事前の推測こそが正しかったと、自分の正当化を考えたりもする。
それに対して、自ら挑んだことで失敗すれば、それはまさに自分事。自分でできると思っていたけれどできなかったのなら、何が悪かったのか、たぶん言われずとも身に染みているだろう。もしも理由すらわかっていなければ、徹底的にそれを追求しなければ、今後勝ち目はない。
そうして失敗から学んで一つずつ大きくなっていく。
いや、実は成功しているように外から見えている人でも、当人はなにかまずかったことを見つけ、そこから一つ大きくなろうとしようとしている。
どのように機会をとらえて成長しようとしているか。それは「自ら」成長しようとしているか、それとも成長“させてもらうことを待っている”のかの違いかもしれない。
転ばずに歩けるようになった赤ん坊がいないように、失敗せずに成長してきた人などいない。いかにその経験を価値ある体験に変えて吸収するか、吸収できる環境を整えられるか。
いつまでもいろんなことを吸収できるようになっていつづけないと、成長が止まってしまう。