消費されているという意識
自分がやりたいことができている時、どんどんと学び、どんどんと成果が出る。あぁ、次はこうした方がいいだろう、もしこうするとするなら、今度はこっちの方を先に学んでおかなければいけない。進歩と学びとがあいまって、どんどんと成長する感覚がその人自身を加速させる。
他方、自分でもできるかもしれないけれど、あまり乗り気でないことに参加している時。自分が消費されている感じがしていた。あぁ、またこの話か。今度はこっちか。でも参加しているという意識というよりも、使われているという意識。
いや、参加しようとしてもうまくはまりこめなかった自分に責任がないわけではない。だが、そうは言っても、結果としてうまくはまりこめなかったのだ。上手くやれたところでのフィードバック、まずいところでの適切なフォロー。それはどちらも「関わり合い」であり、適切なものがなければ、単なる「機能としての価値」でしかなくなる感覚。
そうしているうちに、だんだんと自分が消耗していく。成果が出ても、どこか自分事には思えない。モチベーションも上がらない。
消費され始めるとやばい。自分が削られていく感覚がひしひしと感じられる。
削られるよりも先に、どんどんと自分が成長していかなくては、自分が削り取られ、なくなってしまう。そんな痛い感覚。
痛みに耐えようとか、痛みを感じないようにしようと言った、防衛本能が働くのもわかる。しかしそうした状態が常態化することで痛みがなくなったら、それはもう、かなりやばいかもしれない。