要は負いたくない世界
それがルールになっていれば、「(私の意見ではない、私が決めたのではないのだが)ルールを守りなさい。みんな守っているんだから」と、自分が守っているルールを他人にも押し付けやすい。
それがルール化されていないところで、勝手に自分が守っていることは、ルールとして押し付けにくい。
たとえば、コンビニのレジが複数あるところで、1列になって空いたレジに順に進むのか、それとも個々のレジに行列を作るのか。店によっては明示的に示していたり、店員が促したりするけれど、そうでない店舗では運が左右して、イライラが募るときもある。
だからと言ってそれらすべてをルール化せよ、明文化せよというのも無理だろう。すべての状況に対応したルールブックなどというのは存在しない。そこに書かれていないことが起きた場合にどう対処できるか?がコミュニケーション能力であり、その際にうまく回っていたのがモラルなり、コモンセンスだったりしたはずだ。
けれどそうしたちょっとした混乱時において、個人の判断で対処できない者がいる。なぜならそれがルールになっていないから。その現場判断をしたことにより、その判断責任を負いきれないと思っているから。
だからルール化してくれと頼み、事前に対処方法を決めておけ(自分でその場で決めたのではないことにしてくれ)と懇願する。
でもこれって、あなたがそこにいる意味はなんなのだろう?あなたが考えて行動できないというなら、それはあなたではなく、交換可能だということを暗に語っているに等しくないだろうか?自ら考え、自ら行動し、自らその場で判断するからこそ、「あなた」がそこにいる必要があるのだし、「あなた」の価値が生まれるはずなんじゃないだろうか?
別に大災害時、大事故の時ばかりではなく、そうしたちょっとした判断の時において、あなたがそこにいることの意味が突きつけられているんじゃないのかな。