それはいつ見るんだろう

すでに10年前から、録画装置はHDDへと移行。HDDが出た瞬間から言われていたことだけれど、チューナーの数さえ増えれば、いずれ全チャンネル、全時間分を、ずっと録り貯める装置ができることは、誰もが思いつくことだった。

 

一部のマニアは自分で録画機を複数回揃えたり、ちょっと高価な録画機で、そうした「全録」時代を手にしていた。

 

ただし、だからと言ってその人一人が持つ「可処分時間」が増えるわけではない。誰もが24時間、365日しか与えられない。いくら倍速で見たとしても、1日48時間以上のコンテンツを、「味わって」消化することなどできない。

 

 

食事が「栄養」や「成長」目的だけなら、ビタミンや栄養素の下に計算された、ある種宇宙食のような食事で賄われても良いのかもしれない。それは栄養補給元としての意味がほぼすべてを持つ。

しかし他方で、食事に、噛み応えや、サクサク感、ほのかに広がる味わいやとろみ、そうした食感をはじめとして、目で楽しむ、耳で味わう、舌で味わう、香りで味わうという楽しみ方を知っている。そうした食事を運ぶタイミング、室礼、おもてなし、風情など含めて味わっているところがある。それは、ある意味一つの食事を作るにも、味わうにも、丁寧に時間をかけて対峙する。

 

情報は、流し込まれればそれでOKのものもある。

だがしかし、時間をかけて味わいたい、良い映像で、良い音で味わいたいという者もある。空気が震えるあの感覚、目の前に迫りくる臨場感。現実ではないけれど、本当にあったことではないけれど、感動を呼び、勇気を与え、笑い、泣けるそんなコンテンツ。

 

そんなに貯めて、いつ見るんだろう。

いつ味わえるんだろう。

ちゃんと味わえているのかな。

ちゃんと栄養になっているのかな。

 

「流し込む」だけで「栄養」になるならいくらでも流し込むのだけれど、「味わい方」の違いによって、吸収されるものが違うとしたら、いくら量をとっても仕方がない。

少ないときには、むさぼるように集め、吸収していた時代はもちろんあっただろう。

でも、あふれるように社会に蔓延しだした瞬間に、採り入れ方は考え直した方がいいかもしれない。

 

食べたいものがある。

読みたいものがある。

聴きたいものがある。

見たいものがある。

時間は有限。その中で、どれからどうやって味わうか。

ふと気が付くと、無駄なものを口にし、耳にし、目に、手にしていたんじゃないかな。