見られているのは

生徒である小学生、中学生のやるべきことは、学びであり、その成果の一つとして、試験でよい点数を取るということがある。試験でよい点を取る。一つの指標だ。

 

高校でももちろんそうだけれど、ちょっと変わった教育方針を持つ先生などに当たると、単なる点数を取る学生生活以上に、有意義な時間を過ごせたりするけれど、ま、今の仕組みでは、そんな先生は全国に何人いるんだろう。もしかするとそういう無頼な先生の役目は、予備校の先生に任されているところもあるのかもしれないな。

 

大学は全く違う。単位を取るというのも一つの仕事ではあるけれど、究極は、学び方、そして何を学ぶべきなのかを学ぶという、ちょっとメタな側面を持ち合わせる。言われた内容、割り当てられたものを理解すればそれでよい…というだけではなく、何を学ぶべきなのか、何を掘り下げていくべきなのかをどう見つけるか?ということが重要になる。

 

そうしてなんとか就職に至る。そこでは、昔なら山ほど仕事が「降って」来て、それをこなすことで仕事を学んでいたところもあっただろうけれど、昨今はそれだけでは成り立たず。新たな仕事は何か、仕事をいかに生み出すかということさえも仕事になりつつある。

 

そんなつもりがない者にとっては、仕事は降ってくるもの、仕事は上司から与えられるものとなりかねない。そうなると、いわゆる指示待ち族となる。

今上司になっている人は、昔はそこそこ上から指示が降ってきていた時代の人だ。だが、ここ10年での仕事の変化により、上司も部下も、次のステージへと踏み出さなければならなくなってきている。

上司は、部下が仕事を生み出せることに専念できるように適切に環境を整え、アドバイスを与えなければならず。部下は自ら仕事を生み出し、その可能性を大きく広げられるように努力しなければならない。

だが時にそれは当人の力を超えるモノを必要とする。そんな時に上司が適切にサポートしてくれたり、適切に援軍を送り込んでくれるなら、何も心配せずにそこに突進していける。しかし、そんな状況になっても「それは君が自分で選んで飛び込んだんでしょ」と放っておかれる、見捨てられるような状況になるなら、それこそ、そんな上司の下では一緒に仕事などしてられない。

 

要するに、上司と部下の間の適切な信頼関係が成り立っているか?本当に助けてくれる上司なのか?腰が引けてないか?上司は部下を査定していると同時に、部下は上司を見極めようとしている。上司は複数の部下に見られている。