価値の源泉
旬の季節に旬のものを食べる。当たり前のようでいて、なかなかそうおいしいものにありつけない。
別に高いところに行けばいい、とは限らない。リーズナブルな所であっても、おいしいものを出すところ、おいしい時間を提供してくれるところはあるものだ。
じゃあそんないい店、高い店に行きさえすればいい?というと、多分それも違うだろう。気の置けない仲間と過ごすチェーン店の居酒屋でも、気を使う接待で行く高い店よりも、おいしいお店になりえることはいくらでもある。
こう考えると、何が「おいしい」のかは別の話だろう。
確かに、料理単体としておいしいという、非常にプリミティブな考え方もあれば、雰囲気やサービスまで含んでこその味、そこに集う友人知人がいてこその味など、味わうものの対象が変わってきている。
これは発言でもそうだし、音楽、文章でもそうかもしれない。
著名な誰かが発言したからこそ意味があるその一言、同じ一言でも、同僚が言うそれと、部長の言うそれとでは重みが違ったりもする。
音楽でも、純粋にその旋律や音色に惚れる時もあれば、そこに乗っかる演奏者のストーリー、容姿、背景など、それらが乗っかって価値を生むこともある。時にこれが誤解されたり、音楽以外の部分のみが9割以上の価値を生んでいたりするのだが。
そんな時に、本当に純粋に「味」というプリミティブなものに回帰できるのか?音、音楽性といったもののみに焦点を当てて語れるのか?
そうは言っても…と、切り離せない価値判断でしか判断できないでいるのか?それともここを分断することによって、そのそれぞれに価値を付けることができるのか?
それは、自分と語るしかない。自分が何に価値を感じ、何に価値を感じていないのか?そしてそれは他の人もそうなのか?それらを確認し、それらを共有することでしか成り立たない。