今の私を構成してきたこと

時々考えることがある。今の自分は、どうしてこの場にいて、このようなことを考え、行動しているのか?

 

自分を構成しているのは自分だ、という考え方は確かにそうだろう。自分がそうしたいから、自分がそうしてきた結果として、今の自分がここにある。

しかし、自分は本当にすべての選択肢から自分が選びたいものを選択してきたのか?と考えてみると、それは事実上ありえない。ある時には両親から与えられた選択肢のどれかを選び、ある時には先生に諭された選択肢から選び。大学や会社に入ったとしても、友人の意見、会社の同僚の意見を参考に、その瞬間に選べる、選ぶことができる範囲の中で、選んできたに過ぎない。

 

そう考えると、確かに自分で選んできたのはきたけれど、そこに大きな影響を与えてきたのは、その選択肢を、意識してなのかしていなかったのかにかかわらず、そうした意見、そうした考え方を提示してきた、「自分の周り」に大きく左右されているはずだ。

 

確かにそうなのだ。あの時あの人が与えてくれたひとこと、あの場面であの人に出会ったこと、それに参加するには、その前にあるシステムを私に紹介してくれた人がいたからこそ…。そうした偶然が重なって、初めてその考え方に到達した。

いや、もしかするとそんなことがなくとも、別の経路で同じ帰結に至ったかもしれないが、それはそれでまた、新たな人の意見、指南がそこに導いていたはずだ。

 

 

だとすれば、今それを決断することで、何かを選んだことになる。それは何かにつながる道であると同時に、別の何かにつながる道を今回はあきらめたということにもなる。

多くの場合、何かをする決断を強く決意し、それによるポジティブなフィードバックを称賛したりする。

しかし同時に、選ばれなかった未来をきれいさっぱりと忘れ去っている。いわば思いの大きさに左右されているだけとも考えることができる。

 

時に、積極的にそちらを選ばないという判断の仕方もある。が、その場合、やらなかった後悔、もしもそちらを選んでいたらといった後悔にさいなまれたりする。

これは、思いの大きさが残っているからに過ぎない。もしもそちらを選んでいたら、失敗したとしても後悔はなかったといった思いが乗っていたのかもしれない。

 

であるならば、合理的な判断と思いの重さは、時に乖離する。それらが一緒の時には、選んだことだけに集中してその後を過ごすことで、たとえ失敗したとしても無駄に公開することは少ない。

しかし合理的判断と思いが乖離してしまうと、その選択が合理的判断として正解だったとしても思いはもう片方に残っていたり、またはその逆だったりする。いわば引き裂かれた状態だ。

 

その時にどう振る舞うのか?思いを判断に寄せるのか?それとも判断に思いを寄せるのか?それこそがその後の自分の進み方の一つの指針となったりもする。

 

いつもいつも乖離する形にならざるを得ない場面にばかり遭遇するのか?それとも次にはそれらが同じ方向性を示すのか?そのかじ取りこそが人生だったりするのか。

そして今日も、刺激ある選択肢を提示してくれる場に参加する。好むと好まざるとにかかわらず、結果的に何かを選ぶために。