依存する社会

雪でひーふー言っていることで忘れているかもしれないけれど、雪や雨がやんだら次はあの季節。

そろそろ花粉症が発生する季節。毎年この季節になると、ヨーグルトをはじめとする食生活で予防だとかからはじまり、さまざまな予防手法、防衛手段が報じられる。

薬で抑えるというのもその一つ。医者にかかるというのもある。

 

これだけ情報が発達した社会、自らが何でも学んで、すべてに対処する…という人ももしかするといるのかもしれないけれど、たいていの人はプロにかかる、そう、たとえば医者にかかる。コリや疲れはマッサージのプロにかかる。音楽は演奏のプロに、作曲は作曲のプロに。運転や操縦は車程度なら自分でできるかもしれないけれど、電車や飛行機になるとプロに頼らざるを得ない。

 

もっと卑近なところでは、毎日の食材調達にだってプロに頼っている。プロの野菜栽培を請け負う農家や、プロのドライバーが配送するシステムに頼り、プロが運営する八百屋や魚屋、肉屋、スーパーに買い出しに行く。自ら田んぼに出かけなければ野菜が手に入らないわけではないし、自ら家畜を飼わなくとも肉や魚が手に入る。

 

いわば、それらプロの所業に依存してこそ、これだけの効率が成し遂げられ、これだけの対価を支払っている社会。

プロに依存しあっているからこそ成り立っている、それが今の社会。

 

逆に考えれば、そのプロのシステムの中核となるか、そのシステム運用のサポート側になることではじめて、何かの対価を受け取る側になれる。そのためには、誰かの興味の対象にならなければならないし、誰かに期待される、依存してもいいだろうと信頼される存在になる必要がある。

 

いや、誰も信頼できない、依存できないと思えばそこで縮小均衡に陥る可能性が一気に高まる。今のままでいいと思った瞬間に、今以上に何も広がらなくなる。

 

頼ることは悪ではない。依存することは悪ではない。ただし誰かに、何かに寄りかかりすぎると、いざという時に他には乗り換えられなくなる。適度に依存し、適度に依存される。それは難しいかもしれないけれど、考えて何も行動しないよりは、先に行動してできることを示すほうが話が早いし、物事が回りだす。

 

今、便利なシステム、道具がどんどんできている。だからどんどん誰かに頼ろう。と同時に、誰かにどんどん頼られる、頼ってもらえるようにならないと。