手段と目的

手段が目的化していて、会社が内部で空回りしている、なんていうのは、どこでもよく聞く話題だし、私もどこかで書いてきた。

 

ところで、TOEICとはなんだろうか?

ところで、個人の技量を上げるってなんだろうか?

英語で仕事をする場面が近々想定されているならまだしも、特にそうしたことが想定されていない人、そんなシーンにたぶん今後出会いそうにない人までも、それを身に着けようとする。

 

今までもさんざんやって来たじゃないか。微分積分、どこで役に立つの?と言いながら、高校で習い、そしてその後一生使わずに仕事を終える人が何人いることか。古文や漢文、物理や化学の難しい反応式など、必要な人、必要となるであろう人しか学ばない。

 

いや、だからみんな無駄だとは言わない。学びたい人、それを目指す人はきちんと目指せばいいし、しっかり学んでほしい。英語力を磨けば一気に世界は広がるし、入る情報量は莫大だ。そして、その情報が必要なら、嫌でもやらざるを得ないし、そして嫌でも身についたりする。逃げていても成り立っているなら、それはその人にとっては(その部分では成長しないかもしれないけれど)要らない能力かもしれない。

 

手段を目的化していないか。明確な目的を与えているか?

その先にそれを使う目的が見えていてはじめて、それを身に着ける意味がある。その向こうに広がる未来が見えていない状態では、その手段を目的化せざるを得ない。