形が欲しい場所

レコード、カセット、CD、DAT、MD

VHS、β、LD、VCD、DVD、BD

8mm、Hi8、DV

 

もはや今の小学生が分かるのは、CD、DVD、BDくらい?それらにしても、形は手のひらより大きな銀の円盤で、どれがどれだか?これ音出るの?映像は?って感じじゃないかな。

 

音や映像を伝える媒体として、これまでさまざまな形を使い、さまざまなフォーマットを発明し、その利権争いを行ってきた。

「形」が特許となり、大きな利権を生む。それが普及すれば一大勢力を生み出す。なんせ「形」がなければデータを送る手段が他にない。データをデータとして送る適当な手段が無かったからこそ、そのパッケージ化レイヤーでの争い、競争が起こった。

 

「マルチメディア」などと呼ばれていた時代もあったけれど、それはテキスト、音楽、画像、映像を一括して形ある「パッケージの形」にする媒体として、どの技術を使いたいかという事に過ぎない。

 

「形」にすることは重要だ。その中に含まれているデータが、形を通して手にできるようになる。「量」をモノの形や重さ、大きさで表されることで、直接視覚、触覚に訴える。量や必要な時間が、目に見える形としての視覚で認識できる量に換算される。であるからこそ、量的制約、モノがあふれるという場としての制約も生まれるのだけれど。

 

でももう今は形は必要ない。データそのものの形を送れる技術、通信経路が確立された。

 

水道が発達したからと言って、水のペットボトルが必要ない、というわけではない。山奥で、海上で、沙漠で、水を「パッケージ化」したものが欲しいシーンはまだまだある。

同様に、パッケージ化されたメディアが欲しいシーンもまだまだある。通信経路が確立されていない場所、地域へは、パッケージの必要性はたくさんある。

 

たぶんこの文章を読んでいる人々は、パッケージ型のものよりも、データそのものがすぐに手にできる環境にある人たちが多いだろう。

それは音楽を、画像を、映像を、文章をどう使ってほしいのか、どう使いたいのか、使わせたいのかという思いがなければ迷走するだけ。そしてそれは、ユーザーの立場、クリエイターの立場、双方に寄り添う必要があり、双方に寄り添うエネルギーをどれだけ使えるのか、使うつもりがあるのかを、みんながじっと見守っている。