抽象具象

物事を現実の中でとらえていると、なかなか飛躍できない。

 

物事をいつもいつも抽象論としてとらえていると、本当の活動の意味なんかがちょっと小さく見えたり、ばかげて見えたりすることもあったりするかもしれない。けれどそれが実は抽象論とガッチリ手を組む感覚を味わった瞬間に、すべての意味が変わりだしたりもする。

そして何よりも、Aという物事で経験した内容が、全く関係ないようなBという物事でも、同じフレームで通用するということに気付いた瞬間の驚きとうれしさ。

そう、フレーム、だ。

 

フレーム、いわゆる枠組みでとらえることができる事。この考え方が身につくと、一気に物事の理解の速度が変わったり、見え方が変わったりする。

もちろん、時に「そのフレーム」に収まり切らないはずのものを、無理やりそこに収めて理解してしまう、という過ちを犯すこともあるかもしれない。けれど、そうしたくなるほどフレームという考え方に慣れてくると、その魅力にあらがうことは難しい。

 

そうした抽象概念を扱える人は、1を理解することで3も5も理解できる。同じフレームに乗っけてしまうことができるとわかった瞬間に、「あらためて学ぶ必要がない」からだ。

 

フレームの考えが身につくと、仮説も立てやすくなる。このフレームに乗っけて考えるとすれば、今見つかっていない「この部分」に相当するのは何か?という考え方で、抜けや漏れを払しょくできる可能性が高い。

 

こうした抽象、具象を行ったり来たりして扱うことができる能力、何か特殊な能力に感じるかもしれないけれど、そういう名前で呼ぶということを知らないだけで、考え方はどこかで必ず行っている事。それを、こっちでも適応できるよ、あっちでも使えるよと教えてもらう機会がなかっただけだ。

 

そして、そういう考え方に「名前がある」ということで、ひとつの塊としてとらえ、理解を促すことができる。

考え方を考える、考え方を学ぶ。こういう訓練は中学や高校でもう少しやってもいいんじゃないかなと思うんだけれど。