考える楽しさ

子供のころに、考える楽しさ、わかる楽しさを教えてくれる人(大人)に出会えたとするなら、何にも勝る大きな贈り物かもしれない。

幼稚園児はまだしも、小学校に入ると、つまらないことを覚えこまなきゃいけないと思うこともたびたびあるだろう。そんな時、それを覚えることにどんな意味があるのか、それを使う場面はどんな場面なのか、それを使って大人たちは何をしているのか、そんなことを、子供たちにわかりやすく、そして楽しく伝えることができたとするなら、こんなに幸せな役割も無いのではないだろうか?

もちろん、それがそう簡単にできないことであるからこそ、みんな悩んでいたりする。子供から「どうしてこうなるの?」と問われて、興味を引く回答ができないことは少なくない。

それでも、その時の、その大人の姿勢は、必ず子供に伝わっている。

真剣に向き合おうとしてくれている大人の姿勢は、その態度はもちろん、形にも表れる。子供に向けてだから手を抜こうだとか、子供向けだから安っぽくてもといった考え方は、そもそも子供を「人」としては見ていない証しでもある。

世間の汚れにまみれたフィルターで見ている大人、常識という範疇で視野を狭められている大人が見るよりも、よほどシビアな目で、何の前提もない考え方で見つめられた方が、そもそもフィルターとしてはとても厳しいはず。だからこそ、真摯に取り組む必要があるし、考え抜いたものを提供していく必要性がある。

甲高い声で笑い転げる子供。その行動こそ子供っぽいところがあるかもしれないけれど、そこにこめられているのは可能性であり、それを最大限に伸ばしてあげられる、伸びることが可能な状態においてあげる努力。それは単に、経済的なことばかりでもなく、環境的なことばかりでもなく、それを考え続けることに起因するのかもしれない。

そうした考える時間さえ奪われる毎日かもしれないけれど。