コンテクスト価値

共通性は、デジタル時代においては超得意な分野だ。みんなで共通して手にする「コピー」という手法は、デジタルであるがゆえに、誰にも全く同じものが手渡せる。デジタルが完全コピーを生み出した!デジタル万歳!

 

であるがゆえに、創作者が割を食っている。今までのシステムヒエラルキーは、完全コピーがそう簡単にできないという前提条件の上に成り立っているところがあるからだ。それを基準として、金払いが規定され、役割の価値が創出されている。
ところが、簡単にコピーできる手段がこれほどまでに庶民の手に渡ってしまっている現在では、そうしたピラミッドが成立しなくなっている。

と同時に、コンテクストのユーザーサイドにおける使い方も変わって来つつあったりしないだろうか?コンテンツシェアではなく、「コンテンツきっかけのコンテクストシェア」こそが、今のユーザーがやりたい事ではないのだろうか?

「コンテンツそのもの」の話がしたいわけではなく、それをきっかけとしたコンテクスト、独自の何かを話したりコミュニケーションしたいということが、特に昨今求められている事ではないだろうか?

 

そしてそのコンテクストは、コンテンツのようにコピーできない。その相手、その状況、その気持ち、気分それらすべてがあいまってのコンテクスト。

そうしたコンテクスト価値をどのように想像できるか、どう間接的にその方向に持っていけるコンテンツを作るか?ということを考えたコンテンツ作りで、コンテクストを生み出す必要に迫られてはいないだろうか?

 (続く)