持つもの

夏休み。子供たちだけでどこかにお出かけとか、親に連れられてお出かけ、なんていうシーンをあちこちで見かけることも多い。小さい子供がいることで、出かけるためにはあれもこれも準備しないとという大変なご家族もあれば、子供だけで出かけるために一見身軽だけれど、それでも持たないといけないモノを自分でという意識を新たにする子もいたりする。

自分でそれを持つことが意識された瞬間に、重たいとか、面倒だと思う反面、いつでも使うことができる、自分の手にタイミングがゆだねられているという自由の感覚を手にする。

 

だがいずれにせよ、それらは持てる範囲で有限であり、どこかに限界がある。実際に使う量はと言うと、そのものによってさまざまなため、有限ではあるけれど使い切ることはないモノもあれば、有限であるからこそタイミングをしっかりと見極めて使わなければならないモノもある。

有限の対応で何とかしなければならないためには、使うタイミングを見極める必要がある。今使うのがいいのか、その価値に使うのがいいのか、それともその後のよりよいタイミングのためにとっておくのがいいのか。安易にここで使い切ると後が苦しくなるとか、それでも使った方がいいとか、葛藤がある。それが決断。

もちろん、決断は間違うことがある。当たり前だ。決断した瞬間に、その後に起こるすべての事象を見通せるわけはないため、若干の誤差ははらむもの。それが致命的にならない程度に決断しなければならないのは当然の事。


致命的にならないためには、致命的にならないためのマージンが必要だ。そのマージンを極限まで削減すると、場合によっては取り返しのつかないことにまで引きずり込まれる可能性がある。
そうなると人々は委縮し、対処するやりかたをできるだけ安全側に倒す。ほぼ確実に大丈夫なように。新しい事は何も起こらない。ハプニングは避けられているのだから。

ハプニングが起きないと言う事は、新しい対応が検討されない、いつも通りに回っていると言う事。それは緩やかな衰退を意味する。ずっと同じように回り続けているというのは、ほんの少し成長しているからこそ物理的損傷、経年劣化と相殺されて現状維持をしているに過ぎない。全く同じであるとするなら、それは緩やかな衰退だ。

 

しかし、緩やかに衰退しないためには、小さなチャレンジが要る。それを可能にするためには、万人誰もが挑戦しないと言う事では成り立たない。誰かがチャレンジしなければそこは越えていけない。
ただし、チャレンジするにしても、無謀に行くのは誰しもが望むものではない。それは、ほんの少しでもマージンがあるモノが超えていくしかない。
「持つ者」が超えていくしかない。