価値は形か情報か

AmazonKindleが普及しだしたあたりを契機に、ネットを通じて本の「データ」を購入すると言う事が広がり始めた。

それより以前から、「自炊」という名の下に、自分で購入した紙の本を裁断し、スキャンし、データとして持ち運び、手持ちのタブレット等で閲覧することを可能とする取り組みも流行りだしていた。

 

これらの行いを可能たらしめるためには、当然ながらストレージ容量、データ処理速度(ページめくり)、デバイスの重量、バッテリーの持ち等々が、それぞれにあるレベル以上に高機能化されてこそ初めて実現できたこと。さらにネットを介してとなると、通信回線などのスピードにも影響を受けているだろう。それ以前から各メーカーはいろいろと画策を練っていただろうけれど、タイミングとしてやっとここ数年で立ち上がった、そんな感じだ。

 

しかしそれにもかかわらず、まだ「本や雑誌はやっぱり紙でないと」という人がいる。そうかと思えば、「もう、これから買うならデータだな」と言う人もいる。

 

形にこだわらず、データにこそ意味がある人は、ためらうことなく電子データ配信へと移行可能だろう。場所を取らない、検索性が高い。「情報にこそ意味がある」という方にはうってつけだ。

 

他方、物理的な「本」という「形」に価値を見出す人もいる。美しい装丁、インクのにおい、開くときの質感、重さ、ページをめくるという感覚としての操作感等々。それは本の文章としての意味もあるが、手触りといった存在、「形」にこそ価値を見出す人。だからこそ、それらを裁断してバラバラにすることには大きなためらいが。

 

だがデータ販売が始まる前においても、こういう人がいた。保存用に1冊、読む(使う)ために1冊。いまでも、自炊するために1冊、保存用に1冊。いわば、見ること/「データ」に価値を見出し、と同時にそのものの存在/「形」に価値を見出す人。
たぶんそういう人々は、その人はデータ加工用の1冊と形としての存在保持用の1冊という2倍の値段を支払う。「紙の本を買ったら、データも一緒に、もしくは少し安めに提供してくれると、手間も価格的にもうれしいのに」という声が聞こえる。

 

さて、上記のどのユーザが本命なのか、どの流れが主流なのか。それぞれに向けても別の戦略が組めるだろうし、そのすべてを見通した価格戦略なども打てるだろう。
しかし今、日本でそんな戦略を作れる企業、もしくは、そうした形で業界を束ねられる企業、リーダーは誰なのかな。