距離感

たとえばキャッチボール。

互いの距離が10㎝でできるか?なんて極端なことは考えたことすらないだろう。そもそもそれはキャッチボールにすらならない。
じゃあ互いに100mでできるのか?普通は無理だ。プロの選手ならいざ知らず、ボールを投げて届く距離なんてのはたかだか知れている。せいぜいキャッチボールなら、20mとか30mとかじゃないだろうか。
しかし相手にもよる。まだボールを投げ始めたような子どもとなら30mは遠すぎる。そもそもコントロールも正確ではない。10m、15mでやり取りするのが適切な距離。
言うまでもないが、相手が高校生、しかも球児だったりすると、とても15mでは物足りないだろう。

 

相手との距離が遠いから、細部が見えていないこともある。良いところも見えていないかもしれないが、悪いところも見えていない。
距離が近すぎるから細かいところが気になることもある。何もかも全部見えすぎることがいいとは限らない。

もっと詳しく知りたいという欲望と、知りたくなかったことが分かってしまう落胆と。程よい距離感だからこそできるコミュニケーションがあったりする。いきなりその距離を縮めすぎると、知りたい情報とともに、知りたくなかった情報が流れ込む。
近すぎても部分的には目を瞑ることができる場合もあれば、見てしまったことによって、戻れないことも生じたりもする。

 

いきなり間合いを半分に詰めるのはやっぱりきつい。少しずつ近づいたり、少しずつ遠のいたり。その適切な距離感を調整できる、間合いを測れることで、自分に流れてくる情報量を調整したり、心のバランスを調整したりすることに。

それは、その個体の大きさにもよる。
「人」は、この大きさだから互いに数mに近づいてコミュニケーションしたりするわけで、「蟻」ならば、それは数㎝にならざるを得ない。

 

自分の大きさと、自分が必要な情報と、相手との距離感と。
そうした物理的/空間的距離感に加えて、最近は情報量的距離感の制御が加わってきていることで、なんかより難しくなりつつあるんだけれど。