謝り方の時代

ネット時代になって、ポジティブな側面の一つとして、「発言」は簡単にできるようになった。しかしネガティブな側面からすると、なんでも記録に残るようになった。自分がネットの上に発した言葉が/情報が、何らかの形で残り続ける。一度デジタル化されれば、完全に消し去るのは至難の業だ。

 

ジャーナリスト的観点からすると、そうした体勢側の行動、意見を過去にさかのぼって検証しやすくなったのはよいことだろう。ジャーナリストと言っても「古いタイプ」のジャーナリストであれば、ネット上のそうした情報をクロールしきるだけの実力がなければ、ネットの情報をきちんと扱いきれないかもしれない。たぶんどこかにあるのに、探しきれないことで逃げられてしまう。それにきちんと追従できるのも実力のうち。

 

一市民としては、発言を公に公言しやすくなった半面、一個人として、ちょっとした発言で揚げ足をとられることにもなりかねない。特に、そうした些細な失敗を決して認めない、一度失敗するとそれを徹底的にたたくことで、再び立ち上がることが難しい社会においては、閉じこもりがちになるのも当然。だからこそblogなんてのもわざわざやらないし、blogで発するような情報は持っていないと開き直る人が少なくない某国。

 

過剰に謝らなければ、過剰に責任をかぶらなければ許されない世界は、裏を返せば、誰も責任など一切取りたがらない世界になる。
それこそ、街中でちょっと肩が触れ合っただけで血みどろの抗争に陥りかねない世の中と、「あっ、ごめんなさい」で済まされる世の中と、いったいどちらが街に人を呼び寄せるだろう?という単純な話だ。

謝り方を過剰に求めるというのもやりすぎだが、安易に謝ればいいということも、それもやばい世界を作りかねない。

 

考えてみれば不思議でもある。
これだけコモンセンスが多く締めている日本で、これだけネットが発達して情報が行き交っている日本で、こんなことすらコモンセンスを作れなくなっていると言う事自体が、一つの不思議な気がしてならない。