それは誰のためのものか

お墓の問題は、人生で必ず出てくる話。自分が考えるというのもあるが、自分の親が、親の親(あなたから見ると祖父母)の事を検討し始めたりすることから、墓の話は徐々に話題が出てきたりする。

 

ところで「墓」とは誰のためのあるのか?もちろん、「お骨を入れるところ」ととらえるとするならば、それは死んだ人のためではあるが、ならそれは「ロッカー」のようなものでもいいのではないか。そして実際、そういう形のものもある。

 

が、実際、多くの「墓」はそうなっていない。それは、「そこにお参りする人のため」の場所という意味が多聞に含まれている。その意味では、自宅にある「仏壇」も同じ事。それは「故人のため」であると同時に、そういう個人をしのぶあなたのためのスペース、でもある。

 

海にまいてほしいなどといった「散骨」という弔い方もあるけれど、さてそう故人の意思をまっとうしたところで、さて、残されたものはどこに個人のよりどころを求めればいいのか?やっぱり形あるモノ、場所のあるところにならざるを得ず。心の中にいつでも生きているから、形は持たないと言う人は、たぶん、ほとんどいない。

 

と、たまたまお墓を題材に捉えてみたけれど、そうした前提は、実は、「あなたが考えるその人の前提」であって、「その人が考えるその人の前提」は「その人」に直接聞くしかない。たまたまそれが当たることもあれば、たいていの場合は、微妙にずれたり、大外れしたりする。