前提

テレビが本格的に日本に普及し出したのは、1960年代ごろだろうか。

 

テレビと言うテクノロジーが素晴らしいのは分かっているけれど、しかし社会的には、「ラジオ」があった上での/「映画」があった上での「テレビ」。
そういう比較前提があった上で、前時代の王道コンテンツをひっくり返すよなアイデアで、さまざまにアプローチをかけるのが新コンテンツ。

 

昔のテレビは、今から見れば過激だった。あんなものも映っていたし、こんなものも生中継していた。でもそれらが一つ一つクレームをつけられ、それらが怖い放送局側が、一つ一つ自主規制をかけて来た、その結果として今がある。
もちろん、規制してよかったこともあるけれど、規制したことで、途端に面白くなくなったものも存在する。「誰もが受け取れるメディア」であるが故の、そうした変貌の仕方。

 

そしてここ10年ほどで、また新たな時代に突入しつつある。
テレビがあった上でのネット映像配信、映画があった上でのネット映像配信が始まっている。画面にコメントを併記したり、映像の上に重ねてみたり。
そもそも映像メディアは「テレビ」しか見ないと言う人でも、すでにそうしたメディアはお目にかかっているはずだ。なによりその「テレビ」がネットメディアからの映像情報を取り込んでいる。すでに「テレビ」が一次情報ではなく「ネット」が一次情報であることが少なからずあると言う事。
ネットであるがゆえに、テレビではすでに規制されていることもいろいろ挑戦してきたところもある。だからこそ面白かったり、だからこそ過激すぎたりもしているんだけれど。

 

ただ「テレビ」と大きく違うのは、「テレビ」は許認可制であり、そして今のネットでの映像配信は、非常に簡便に、ほぼ誰でも流せるということ。国という制限にすら縛られない。

だからこそ、へたに自主規制をすることで、他の国から流されているものに駆逐されかねない。自分たちの文化都合を乗り越えて、外国からのコンテンツが入ってくる。
今はまだ、「言葉」という言語のバリアーに支えられているけれど、すでに英語が普通に交わされ始めている社会。
世界を見据えた面白い事、世界を見据えた興味のあることを考えた上で、映像を作らなければ、コンテンツは淘汰されていく。

 

前提は変わる。状況は変わり続ける。
変わり続けている波に、いかに乗り続けるか。
世間は、強者生存ではなくて、適者生存なのだから。