正解にする力

世の中、「正解」を必死に求めているところがあるし、少なくとも高校までは、「正解」を求められた。しかし大学以降では、正解を求めるところもあるけれど、それよりもむしろ、「正解にする力」が求められる。

「正解にするためには、このように分析する」だとか、「正解にするためには、このような手順を踏まなければならない」とか。

 

それは、理系文系に限らない。実証を経ることで正解を見つけようとする。解がないところに突っ込んで行って、今の時点では存在していないその解を形づける。

ただ、そうして見つかったものは、その後も変わらず正解であり続ける…とは限らない。

 

もちろん、不変の原理を見つけることもあるけれど、中には、「その時には正解」だったことが、「のちには間違い」であったこともいくらでもある。

でも、だからと言ってそれを責めても仕方がない。それは、「その時には正解」であり、その時の精一杯の力で得られた解のはずだからだ。

だからこそ、それをいつでも、いつまでも「今、正しい解」にし続けるためには、努力が必要だし、工夫が必要だろう。

 

さらに、昨今はどんどんと物事が分かり始めることにより、より多くの事に注意して進めなければならず、どんどんと正解を探すことが難しくなっている。であるからこそ、それを正解にする力が必要になっている。

力で押さえつけると言うのではない、どのレベルで納得するべきなのか、今の技術で見渡した時に、どこを目指すべきなのか。そのままやり続けた場合、やらなかった場合、どうなるのかを、分かる範囲で検討し、十分に議論を尽くす。誰かにおもねるのではなく、誰かを犠牲にするのではなく。不変の事象でない限り、留まることこそが大きなリスクになる。