ひとっとびに結果を望むと

誰かに頼って生きていく

悪い選択肢じゃないかもしれない、ほんとうにそうし続けられるなら。

 

考える癖をつけられなかったら。

考えるとは、この道が正しいのか、正しくないのか、常に悩みなさいということ。そしてたとえその選択が間違っていたとしても、それに責任を持ちなさいということ。

そうして選んだものが、よいものであれば、ほかの人からほめられることもあるだろうし、なにより「結果自身」がほめる、よしこっちでよかったよかった、と。

 

だけれど、「結果」のみを重視していると、考えるという途中のプロセス自身がすっ飛ばされることにもなる。結果が良かった場合にしか、良いフィードバックが返ってこない。

そうなると、選択の道筋がどうあれ、結果がすべて。場合によっては次善の策しか選べない時もある。となると結果にすら納得がいかず、よって、「結果自身」がほめてくれることもなくなってしまう。

 

結局、そうした途中のプロセスをすっ飛ばすこと、端折ること、効率化することで、実は「ほかの人」にのみ依存するかたちになってしまっていないだろうか?たとえ次善の策しかなかった場合でも、その選択の仕方、考え方が間違っていないことへの評価はどう教えてもらえるのだろう。

 

結果、マニュアルに依存することは大変うまいのだけれど、そこから道をはずすこと(例外対応)にはとても弱い人種が出てきたりする。

 

まず考える事。考えて考えて、そして成功すること。

万が一、考えて失敗したとしても、その失敗からも学べるくらい考える事。

単純に結果に、ではなく、考えた末の結果に。そして考えたことと結果の、両方を手にすることができるように。