快感を伝えているか

何かが「解けた」ときの快感ってのは、何物にも代えがたい事を知っている人がいる。

しかし「それ」を解くためには、○○と××とを勉強しておかなければならない…なーんて事前に限定することは、たいていの場合、無理だ。何と何とを学んでおかなければならないか、なんてわからない。

 

だ、か、ら、そのために学ぶ。あらゆることを学ぶ。
一気に学べないからこそ、その基礎知識を学ぶ。
あらゆる知識エリアにアクセスできないからこそ、知りたいところから学ぶ。
知りたい、と思うところに手を伸ばす。

何かに興味を持ったり、何かが不思議だと思ったり。
それを自分で学べる環境は、20年前とは飛躍的に変化し、リッチに変わった。
昔は手に入らない情報、データも、場合によっては瞬時に手に入る。
ただし、それは「手に入れようと思えば」だ。
だから手に入れたいと思うものには、比較的楽に情報が手に入る。きっかけを手に入れるのは昔に比べてとてもたやすい。
そして、一度その歯車が回りだし、適切な階段を上り始めることができれば、その人はどんどんと階段を上ることができる。

勉強すること…の快感ではなく、解けることの快感。
それを知っているからこそ学ぶ。誰も知らないことを、自分が世界で初めて解き明かせる。こんな知的興奮は、そうそう味わえるもんじゃない。さらに運が良ければ、それが人類に受け入れられ、喜ばれたりもする。

この快感、感動を味わうことができれば、知っていれば、黙っていてもそちらに進む。「勉強しなさい!」ではなく、「勉強したことで、それで問題が解決できると楽しいよ?知ってる?」だ。

だって快感なのだから。