主体としてのポジション
NHKスペシャルでは、今から30年後の世界ではこうなるだろう、こんな技術革新が世界を変えるという番組を流している。
人々の暮らしはこんなに便利になり、こんな生活を送れるようになるだろうとの予想、そしてその裏付けとしての技術が紹介される。
であればあるほど、私はこう感じてしまう。
「で、人はどうありたいのか?」
人のありたい方向がなければ、いくら技術が使えるようになったとしても、自分がありたい未来になっている保証はない。逆に、技術的困難が目の前に立ちはだかっていようとも、その方向性、こちらに行きたいと言う意思、反対にこっちの方向には決して行かないぞと言う決意があれば、そうそう簡単には間違った方向での発展にはなりえない。
昨今、そうした方向性なしに進んでいる、言い換えれば技術に翻弄されている時間が多いような気がする。
道具を発明するのは人の大きな成果だけれど、その成果に振り回されているようならば、誤解を恐れずに言えば、そんな道具はなかった方がよかったのかもしれない。
それでは人類の成長などない、人は発展しないなどと言う人もいる。
でも、技術に振り回されてでも発展を目指すべきなのか?たとえその振り回されるふり幅が極端に広い場合であってもなのか?いやいや、そもそもそうではなく、少々振れ幅を調整して、少し安定志向で行くべきなのか?
人類としてのポジションをどこに置くのか?
この小さな星の上で。