恥と成長

今でも通用するかどうかは疑問の余地があるようだが、日本は恥の文化だと言われてきたところがある。恥ずべき行為は慎む。やたらな失敗はしないように、日頃から訓練に励み、その上で挑戦せよと。

これを言い換えれば、勝負に出るためには十分な練習を積んだうえで、その上で負けるなと言う事。とは言えスポーツや習い事など、優勝する者/チーム、言い換えれば、その大会で一度も負けない者は、一人しかでない。

 

と考えると、世の中の趨勢は「必ず負ける」。勝ち続けのは、ほんの一握りにすぎない。これを恥と思うか否か、と結びつけるべきではないはずだろう。

にもかかわらず、仕事で失敗しただとか、事業で損失を出したなど、そうした失敗をするとこう責められることがある。恥ずかしくないのか!と。
要するに「負ける事イコール恥ずかしい事」として叱責される。勝て!絶対負けるな。恥ずかしい事に等するなと。

そう問われれば、一つは十分に準備をして挑む。念入りに準備をし、どこから攻められたところで負けない状態を作って挑むことになる。いわば乗り越えるべきハードルの高さまで限りなく自分が近付いていく。が、「絶対」はあり得ない。
もう一つは、ハードルをできるだけ下げる。そもそも昨今の環境では、十分な時間など与えられることはない。できるだけ最短時間で、可能な限り短い時間で乗り越えろ。と言われると、そもそもハードルを下げて「負ける確率を下げる」という状況を作る。
結果として「それ」は乗り越えられたとしても、下げられ過ぎたハードルは、成長が意識できるほどの何かは内包していないこともしばしば。結果として自分が上には上がっていかないことも少なくない。

それに比較して、たとえ「負けたり失敗した」としても、高いハードルに対して鍛錬し、準備したことで、自分が持ち上がっている人は、次の事象に出くわした際には、いともやすやすと越えていく、成功していく人がいる。前の失敗そのものが次への糧になっている。


一発アウトではない世界。そいつを仕組みとして導入していかないと、一発アウト、一度の失敗が大きな傷にならない世界でないと、一度の恥ずかしい事が永遠にならない環境になっていないと、挑戦したくなくなり、微々たる成長しかできなくなっていくんじゃないだろうか?