けんか、諍いが生み出していたもの

大人の世界では、暴力こそ振るわないものの、喧嘩が起きることがある。諍い、言い争い。

 

もしも、組織的地位としての力の上でねじ伏せられることが分かっているなら、そもそもそんな言い争いはしないだろう。あいつの言う事を聞くしかないとわかっていれば、無駄なエネルギーを使いたくないものだ。

 

一般的に、そうした諍いが起きるとき。それは、実力が拮抗しているからこそ起きること。

明らかに一方の実力が他方より高ければ、そもそも、争いにすらならず、一方的に決着が付くことがほとんど。もしも実力差が明らかなのに決着が付いていないのであれば、それは本当の実力がある方が、手加減を加えてくれているはずだ。
 
強いものは、しばしばそうして見守ってくれていた。そして弱い者は弱いで、それを知った上で勝負に挑むのと、知らずに無謀に勝負に挑むのとではわけが違うことも知っていた。

…だけど、最近どうも違う感覚がある。強い者も見守らず、力でねじ伏せることが横行したり。弱い者はそれはそれで、何も考えずに挑み続けて痛手を負ったり、反対に、最初から完全に諦めモードに入ってなんにも抵抗しなかったり。
ある意味でのこれまでの文化の中にあったはずの信頼関係が壊れて来ている気がしてならない。どこかで大きな「信頼の床柱」が折れて、崩壊してしまわないか、というのが怖い。