反対語思考

小さい子供と言葉遊びをしたりすると、

  高いのはんたいは? 低い!

  広いのはんたいは? 狭い!

ちょいと知恵がついてくると、

  早いのはんたいは? …早く“ない”

なんてことにもなってくるのだが。

 

大人になるとめんどくさいことは考えずに、

  「○○」の反対は「○○ない」

として処理している自分がいる。分かりやすいし、間違いはない。 

でも、こうして簡略化する/楽をすることで、見失っていることもいろいろ。

 

「ない」を付けることで反対になる、それ以外になるという簡単なロジック。そうすることで、考える負担を減らしている。いや、悪くない、悪くないんだが、そうすることで気が付かなくなったところが少なからず出ている事が意識できているかどうか。

 

取り扱わなければならない情報が増えたことで、少しでも考えることが楽になるように、考える量が減るように、簡便化する思考、方法は利便性が高い。でもそうすることで、ショートカットすることで、普通なら気づけるはずの事に気づけずに、あとになって後悔する事はないだろうか?

 

対になっている言葉を想像すると、その人の思考の仕組みの一部が見えてくる。その事の本質が見えてくる。裏は何か?隠れていることは何か?隠そうとしているのではないか?

 

光が当たっていないところには、モノや事がないのではない。見えていないだけ。
見えていないと、無いのと同じ扱いになってしまう。
楽だけど、それでいいかな?必要なモノが見えていないこと、ないかな。
想像しないと、想像して見ようとしないと。