「道具」を使う
道具を使う術はどこで習うのか?
昔なら、ナイフの使い方など、学校で習ったかもしれない。
鉛筆を削るためにはナイフで削るしかない、という時代だってあった。
彫刻刀を使っての版画の授業も、そうした道具を使うと言う習い事の一部を担っていただろうに。
しかし昨今の「道具」は、昔よりもより複雑に、そして高度なことができるような道具。コンピューターテクノロジーが根底に使われている。
であるがゆえに、道具を道具として使いこなせるというよりも、最低限の使い方を知るにとどまる事が少なくない。本当はそれ以上の使い勝手があるにもかかわらず、その部分をぐっと端折って、「(とりあえず)こう使いましょう」的に教わってきたり。
しかし生徒/学生の方は長けている。時間も興味もたっぷりある。ここをこうすると?こっちをこうやると?おぉ!こんなことができるではないか!教える方よりも格段に詳しく、そしてうまく使えるようになるのは時間の問題だ。
そうした高度な道具、それは昔から言われるいわゆる「道具」のみならず、時間を楽しく過ごさせてくれる道具、たとえば携帯ゲーム機なども「道具」とみなせるだろう。少し前なら「ケータイ」も、今なら「スマホ」も立派な「道具」だ。
しかしまず大人からして「道具」に使われている。「歩きスマホ」といった言葉ができていることからして「道具」に使われているのは子供たちだけではないことは明らかだ。
そうした高度な道具を「使う術」、「道具に使われず、道具を使う術」をどこで身に着けるのか?学校?家庭?それともこれこそ自己責任なのか?いやいやメーカー責任なのか?
そもそも昔から、新しい装置は発明され、新しい道具は増え続けている。が、それらを使いこなしている人、それらが出てきたからと言って使われていない人は明確に存在する。
自分がそうした人になれていないなら、自分の周りにいるそうした使われていない人は誰なのか?そして道具を使いこなしている人、道具に使われていない人は何をしているのか?また、何をして「いない」のか?それらを真似してみるところから始めてみるのもひとつ。
あたらしい環境、以外にそうした小さな時間の積み重ねが、後あとの大きな差異を生む分かれ道になっている。そして気づくのはいつも、あとのまつり。使うモノに使われていないか?