考えるを考える

いわゆるマスメディアは、両方の意見を取り扱う、なんていうのを聞いたことがある。賛成と反対と。世の中にはその両方の意見があるのだから。

 
その昔はこれが厳密に管理され、賛成派が10分の時間を使っていれば、その他の勢力も同じ時間ずつ扱うようにときつい規制がかかっていた。が、それも1980年代ごろまでらしい。
 
今ではかなり緩まっているようで、そのバランスの割合は保障されていないんじゃないだろうか。本当に真の民の声による賛成意見が90%を占め、反対意見が10%だとしても、メディア上において、賛成意見は90秒、反対意見は10秒、といった報道バランスにはなっていないだろう。
 
特に最近、この現実におけるバランスと、ニュース時間におけるバランスの割合の乖離しているであろう違いが目につきすぎる気がしている。いや、判官びいきにした方が視聴率が取れたり、雑誌や新聞の売り上げが上がったりするらしい。ま、想像に難くない。
しかし、それをもってして「社会の流れ」が生まれることもある。それが良い流れなのか、悪い流れなのか、私はまだ市民にそれらを見分けるほどの優れた眼力が備わっているかと言うところがとても不安だ。
考える人ばかりではない。流される人も多い。そうなんだぁ、と。
 
だからと言って、メディアを規制するというのも今どきでは違う気がしている。それはそれで、大きな力で統制する話になる。
結果として、一人一人が良く考え、良く行動する、互いに深く考え、互いの事を考えながら、自分としての最適な行動を取らざるを得ない。そのためには、考える癖がついている必要があるはずで。
 
でもそんなことをどこで教わっただろうか?
答えはなんだ?と解を出すことは教わっていても、唯一解のない問題の解をどう扱うかということをどう扱うのかについて、もっと考える機会があってもいいんじゃないだろうか?
考える時間すら奪われている…のかも。