分かりたい、けど

物事を理解したい。分かりたい。

けれどそのほとんどの場合、「分かったつもり」にしかなれない。

 

子供が言葉を話せるようになると、その初期の段階で、「何で?」と繰り返し訪ねてくる時期があったりする。最初のうちはそれなりに答えるものの、何度か繰り返すうちに、説明する側すら理解していない境地にたどり着くことは少なくない。そして多くの場合、そこで面倒になって止まってしまう。子供なりに、説明者たる親によって、強制的にシャットダウンされてしまう。

 
ほとんどの事は、分かったつもりであり、所詮表面的でしか無い。
でもなぜ、それでも分かった「つもり」になるのか?
それはたぶん、それと決別して次に進むために。
そのこととはそこで終わらせたい、から分かりたい、分かったことにしたい。
 
本当はもっと分かりたいんだけど、分かったところで何の意味が…というのが大半。
でも何千回、何万回に一度は、その先が分かることに、大きな価値が潜んでいる可能性があるんだよね。そこから一歩先へ踏み込めるか否か。あと一歩だけ踏み込む。
差なんてそのくらいで、でもそれが、大きな違いを生む。