探せない時代から、探せる時代、探す時代、探さなければならない時代へ

電話勧誘、訪問勧誘、嫌っている人が9割以上。

なんていうアンケート結果が出たそうで。
 
確かに、20年前とは環境は完全に変わってしまっている。以前なら、探す手段すらなかったものが、今ではコンピュータやスマートホンの普及から考えると、誰もが探せる時代へと変わっている。
 
私にも時々かかってくるけれど、勧誘の電話や売り込みの電話で、向こうから信頼できそうなうれしい情報が来たことは、まずない。自分にとって欲しい情報は、まず向こうからはやってこないのだ。
 
たまにこういう人もいる。もし万が一、本当においしい情報が向こうからやってきても無視するのかと。
これこそ「期待値」の問題だと思う。むこうからそんな情報がやってくる確率と、その情報がもたらす富を掛け合わせたとするならば、それをどう考えるのか。もちろん、個人の自由だけれど。
 
万が一の美味しい情報にかけて、やってきた情報に乗るな、とは言わない。それで万に一つの栄光をつかみ取る人もいるだろう。
しかし今なら、もし、そうしたいと考えるのなら、今なら自分で探しにいける。そちらのアクションの方が、何倍、何十倍も重要かつ確実なアクションじゃないだろうか?
 
と、こう書いたとしても、「とは言っても、世間では自分で探せない人もいるよ…」という反対意見が必ず残り続ける。以前の体質から劇的に変えては、弱者が取り残されると言い続ける人がいる。
 
これは社会システム全体におけるリスク管理、コストパフォーマンス管理の話。
社会全体が成長し、放っておいてもみんなに富が分散した時代なら、そうした非効率も許されたかもしれない。でも時代はそうじゃなくなってきている。どこで折り合いをつけるのか、どこまでを救い続けるのか、効率化と、救済レベルの間で、社会システムは揺れる。そして、自助努力と言う名で弱い者が切り捨てられようとしている現実も、確かにそこにある。どこまで背負うのか、どこまで覚悟するのか。